2015年09月30日

誰のための阿倍政権




 安保法制も予想通り強行採決で終わり、世の中一段落のような感じがしてならない。NHKさえも盛んに報道していたマスコミは政府に合わせるようにほとんどもう終わったという報道に変わってきている。決して何も終わったわけではないのに。

 どこかで何度も見た風景である。どこかで見た風景・・・そう原発である。誰かが叫んだ「under control」、まさに終わった後に完全にコントロールされている、つまり問題は一段落である。次はオリンピックであり、安保法制の次は経済というわけである。安倍政権の政策の打ち出し方は、かなり戦略的である。政策が行き詰ったり、多くの人の反対にあうと次から次に新しい政策を打ち出して目を眩ませる。よく考えないと術中に嵌ってしまうのだが、マスコミなどはそのリズムが合うのか、嵌りの典型である。もちろん安倍首相の計算の一部であるのは確かなようである。 笑ってしまうのは、アベノミクス「新3本の矢」である。現在の「3本の矢」の検証も、いや検証の前に実行もされていないのに、「新3本の矢」である。それを堂々と打ち出してくるところに、安倍政権の傲慢さが透けてみえる。

 ただ今回は一段落では済まないだろう。これから安保法制が施行されると、実際に死者が出るからだ。すぐ死者が出るわけではないが、死者が出た時に日本の世論はどう動くだろうか。おそらく安倍政権は、死者をダシにしてナショナリズムを煽る戦略に出るだろう。安倍政権はそこまで考えている、と思う。そうでなければ、安保法制が採決されたばかりで、あれだけもめた国会での採決の後で、大々的に得意げに「次は経済」「一億総活躍社会」とまでいえないだろう。

 要するに、国民は舐められているとしか思えない。学者や元最高裁判事さえも無視する安倍政権だから国民が舐められても仕方がないが、国民までもを恐れずに、一体安倍政権は誰のために何のために統治しているのだろうか。
 
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2015年08月29日

安倍政権の思想について




 安保法制の論議やその後のごたごたを見ていて、ようやく安倍政権の「思想」が明確になりつつある。当初はどうも欧米などが指摘しているように極右政権かなと思っていたが、典型的には先日の70年談話が示しているように、ナショナリズムにもとづいた右翼思想は安倍思想の主要な核ではない。むしろ、談話を見る限り大戦後の戦後レジュームに忠実に従っているようにさえ思う。ただし注釈がいる。いわゆる「脱亜入欧」である。談話ではアジアのことは触れてはいるが、その視点は欧米の進んだ資本主義社会から遅れているアジアを見下すような視点である。「戦後レジューム」+「脱亜入欧」、ここれが安倍政権の思想である。

 さらに重要な点は、小泉政権から引き継いだ「新自由主義」が安倍政権の核に濃厚にみられるということである。いわゆる「新自由主義」とは「市場経済」の社会全体への形式の一般化だが、言い換えると市場経済の、社会への徹底化である。安倍政権の政策をみると、原発も教育も社会保障も、沖縄の基地移転、東北の復興でさえもすべて市場経済のため、経済合理性のためだけに政策が組み立てられているように思える。そこにはナショナリズムも、安倍首相がいう「美しい日本」もむなしく響く。
 
 つい最近も「女性が輝く社会」政策の一環として女性管理職の割合を企業などに義務化する「女性活躍推進法」が参議院で可決されたが、これなどその典型である。成長戦略の一つということだが、単に女性管理職の比率が高まることだけで成長戦略に貢献するとは思えないが、成果主義にみられるような数値によって経済合理性を評価することは新自由主義の本質でもあるのだ。

 新自由主義が資本主義の徹底化=浸透の結果であるとすれば、それは安倍政権だけの専売特許ではない。安倍政権が依然として支持されているのは、新自由主主義が一内閣だけの思想ではなく、われわれの思想として浸透しているからに他ならない。サラリーマンの「成果主義」、教育の「偏差値」などはすでにわれわれの生活の中に、それほど抵抗なく入り込んでいる。それによってどれほどの人が苦しんでいるかに関わらずである。安倍政権はそのことを徹底化しているにすぎない。すべての生活が経済合理性の世界で構築されつつあるというのが、ぼくの見方である。 
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2015年06月30日

「腹をくくる」第9条の意義




 ギリシャの債務不履行問題が大詰めを迎えて、何やら「世界」やら「国家」や「歴史」が身近になってきた気がしている。変動の予兆を感じる。日本でも、これら世界の変化と直接の関係はないが、安保法制が憲法学者による違憲表明から急激に世論の変化が起き、これらの世界の変動と歩調を合わせようとしているように見える。

 安保法制はもちろん、安倍総理が云う様に世界の変動と無関係ではあり得ない。むしろ安保法制を進めようとしている安倍内閣は積極的に世界の動きを意識し適応しようとしているといえるだろう。問題は、憲法第9条の意に反して戦争を準備していることによる。第2次世界大戦において国家はもちろん国民の大部分が徹底的に壊滅的な経験をした日本が、軍備による活路を再度見出そうとしているのである。安倍内閣は軍備による活路に幻想を持っているのである。

 憲法第9条を持つことによって、「絶対に(他国から)攻められないという確証はなく、ここから出てくるのは絶対に安全という論証はない」(樋口陽一「いま、憲法は時代遅れか」2011年)のだから今国会で論議されているように、「安全」か否かということ、つまりどこまで自衛隊が武装したら良いのかとか、どこまで自衛隊が出動したら良いのかというような議論はあまり意味がない。第9条は樋口が云う様に「他国から攻められない、あるいはこちらから攻められると疑われないという、それだけの前提を満たす努力が必要」なのだ。つまり、第9条は軍備を持たないことによるリスクを敢えて取る、言い方を変えれば変動する世界の中で「腹をくくる」ことで、世界に誇る日本を示すことなのだ、とぼくは考えている。そこまでの覚悟が、戦後、戦争の反省に立ち憲法を受け入れたときの日本人のコンセンサスではなかったか、と思う。
 
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