2013年06月07日

分岐点にきた日本




 どうやら「アベノミクス」も分岐点を迎えたようだが、安倍政権発足以来の熱狂は何だったのだろうかとも思う。

 発端は原発問題、円高、株安の連鎖、対中国、対韓国の対応などで浮足立った民主党の政治だったように思うが、よく考えてみると、われわれ国民の間にある政治に対する考えが定まってないことが一因ではないかと、この頃考えている。高度経済成長時代の感覚で政治を見ると、確かに政治は混乱しているように見える。しかし、そのような眼で政治を見ることがこれからの日本にとって適切なことなのかどうか、疑問に思う。

 20世紀末のバブル崩壊、その後のリーマンショックの後、マスメディアもそこに登場する専門家も、日本沈没の危険に対して盛んに日本の政治に対して煽っていたように思うが、よく考えてみると、それは冷戦後の世界秩序形成が依然として混乱していることの表れであって特殊な日本の政治だけの話ではない、という認識が必要に思う。

 そういう眼でみれば、つまりもっと大きな歴史的な観点で今をみれば、冷戦の崩壊で勝利したはずの自由主義陣営の弱体化、アメリカの覇権国家からのゆるやかな離脱が、日本の政治に影響を与えたことは間違いない。それに呼応して経済の面では、世界の先進国に共通して家電や自動車などの資本主義を牽引した商品が成熟を迎えたこと、それに代わる商品が出てこないことでまずアメリカの経済が製造業から金融にシフトし、そのことが世界の経済の不安定要因を高めた要因である。日本のバブル崩壊はその影響の一つである。

 日本の政治はそのような外的要因によって、非常に影響を受けたことは間違いがない。今のアベノミクスにしてもその延長線上にあるが、安部政権の誤解は、あるいは日本全体の誤解でもあるのかも知れないが、かっての世界の中での日本にもう一度なれると勘違いしていることである。もちろんなれないことはないだろうが、世界の構造が変わってしまったのである。製造業は既に韓国に猛追撃を受けているし、かっての日本が得意としていた産業の大部分は中国に取って代わられている。そういう現実を冷静に考えるならば、日本の将来の国家ビジョンは過去とは違ったものになるはずであった。日本の政治はそれに失敗した。

 「アベノミクス」の成長戦略は、そのこと自体別に間違っているわけではないし、メディアなどが騒いでいるインパクトがないわけではない。そうではなくて、成長戦略という発想自体が過去の延長にあるからインパクトがないのである。牽引する商品がIT以外にないという世界の資本主義の現状で、過去の発想による「成長戦略」では日本が浮上するチャンスはない。


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 胸ぐらを掴む男の胸元にIDカードが揺れていたこと(堀合昇平)

 歌人の東直子がサラリーマンを評して次のような感想を漏らしている。

 深夜の電車に乗っていると、目の前にいる人たちが皆ひどく疲弊しているように見える。かって「企業戦士」という言葉で鼓舞されていたサラリーマンが、今その目はどこかうつろで、経済発展のために使われる「経済兵士」と呼びたいような悲哀がにじむ。(毎日新聞6月3日 東直子「命の歌を読む」、短歌も同様)

 それを象徴する歌が上記の歌である。会社勤めの社員がいつも身につけているIDカード。見方によっては身分が保障されている証拠とも見えるIDカードだけれども、IDカードによってしか「存在」が認められない悲哀を感じる。IDカードをいつも首からぶら下げているサラリーマンは、IDカードによって会社を意識する、あるいは意識させられるが、それは幾分滑稽でもあり、またその分ある悲しみを漂わせている。IDカードはまた「カッとなって胸ぐらを掴む、という生々しい感情に支配されているときも」IDカードはそこにある。サラリーマンを「経済兵士」として見る東の目はそこを見詰める。

 深夜の電車では東と同じような感想を持ったことがある。5〜6年前だが深夜のサラリーマンの雰囲気が厳しくなったという印象を思い出した。リーマンショックの前だったが、深夜の電車が怖いと思ったのは初めてだった。相変わらず酒に酔ったサラリーマンが多かったが、過去にはない殺伐とした雰囲気を思い出す。あれからしばらく経つが、その雰囲気が良くなったという話は聞かない、いや日々その雰囲気は悪くなっているといって良い。

 日々追い立てられるように「成長」という言葉が後ろから迫ってくる。前からは資源にせよ人口にせよ、あるいはグローバリゼーションにせよかってない困難な道が見えている。その中でサラリーマンの置かれている状態を東は「悲哀」と感じているのである。いやこれはサラリーマンだけのことではあるまい。今日本全体が「経済成長」という言葉で後ろから、前からは殺伐とした未来によって煽られているように思う。東は言う。

 文明があることで疲弊している人たちを知ると、人類が命をかけて築きあげてきた文明とは何か、考えてしまう。曇天の下をゆく黒いスーツの人たちの本当の望みとは、何だろう。(同)

 東の短い指摘は、決して大げさには聞こえないリアリティーを含んでいる。そこまでわれわれの周囲の環境は追い込まれていると思う。

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posted by 阿Q at 23:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月27日

不安




 前回株の変動の幅が大きくなったことに対しての日本人の不安感を述べたが、本日の下落の反応をみると多くの人が不安を現実のものとしていることがわかるが、面白いのは、何とかアベノミクスがうまくいって欲しいという希望を依然として抱いていることもわかったことだ。その希望は当然のことではあるが、希望の根拠が崩れつつある中で、また、この希望が崩れた時のリスクを考えると、どうして依然として楽観的な見通し持てるのか、わからない。まだこれから上がるのではないか、もう少し待とう・・・等々。

 アベノミクスは言ってみれば需要の回復のための施策である。需要は金融の需要ではなく実物経済の需要である。その実物経済の需要とは、例えば日本の高度経済成長を支えた家電製品に対する消費者の需要であったり、同じく高度成長経済を牽引した車の需要である。このような明らかに目に見える需要が日本に今あるか。いやアメリカにあるのか、世界にあるのか。と考えると、これからの先進国の成長が並大抵のことでは達成しないということは自明である。

 安倍政権は、先端技術の輸出で経済成長を達しようと必死だが、高度経済成長時代でも輸出はGDPの2割程度だった事実を忘れている。国内の家電や車の需要が高度経済を引っ張ったのだ。この単純な事実を脇に置いて、高度経済成長の夢をもう一度というのは希望であるしかない。希望は一方で叶わない夢を含んでいる。だがいつしか希望が確信に変わってしまったのが今の日本である。希望を希望として冷静に見るのが政府の仕事だが、安倍政権自体が希望を確信として国民に持ってもらおうとしている。

 もちろんこれからも株の上げ下げはあるだろうし、まだ実際の株は昨年に比べたら高い。ただ言いたいのは、阿倍首相は株のことは言明しないとしているが、アベノミクスの当初の宣伝の時は「ほら株も上がったでしょう、円も安くなったでしょう」と国民に言っていたことである。その一貫性のなさは、政治家として非難に値すると思っている。日本の国民はそれを忘れているのだろうか、支持率は依然として7割近くある。最初は盛んに株の上がったことを宣伝していて実際に下がってみると「株のことは言わない」と話す。そんな首相をどうして信頼するのか。

 このように書くと非国民と言われそうだが、心配しているのは今のアベノミクスを続けていった場合のリスクの大きさである。株の暴落も心配だが、真っ先に考えられるのが国債の暴落である。その際長期金利は当然上がる。長期金利が上がれば住宅ローン金利も上がるし、何よりも膨大な国の債務の返還が困難になる。ほとんど不可能になるのではないか。その先は・・・考えるのも嫌になるほどである。本当にその時どうするのだろうか。
 
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posted by 阿Q at 23:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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