2014年02月26日

ソチオリンピックを考える。・・・マスコミ報道の喧騒



 ソチオリンピックも終わって、マスメディアの喧騒がなくなってほっとしている。。何しろいつもの「メダリストはこのような家庭で育った」だの「地元ではこんなに応援している」といった競技とは無関係なことで大袈裟に話がフレームアップされパターン化されて毎日見せつけられることに、いささか食傷気味になっていたからだ。

 何事も大袈裟に騒ぐことは警戒せねばならない。特に最近はマスコミ(もっぱらTVだが)の「故郷」だとか「地元」だとかひいては「国の威信」にかかわることだとかが必要以上に強調されることにある意図を感じてしまう。もちろん明確な「意図」などはないことはわかっている。強いていえば「無意識」とでも言えるのだろうが、日本がおかれている世界の中での位置がわかるような気がする。グローバルな世界で相手にされるために精一杯背伸びするような「無意識」が日本全体に働いているような空気である。それは、グローバルとは逆説的だが日本という「国家」を全面的に押し出すような空気である。

 そんなことを考えたのは、メダリストの、マスコミの話とは逆に大部分が選手として大きく育ったのは日本ではなく海外であったり、海外のコーチを招いたり、あるいはプロとして海外を転戦することを通じて技を磨いている選手の話を聞いてみると、必ずしも日本のトレーニング環境で育っていないからである。日本では昔から「地元」「故郷」「国」のためにスポーツでも学問でも励むというのが一種の伝統になっておりマスコミの一連の喧騒はそれを引き継いでいるのかもしれないが、当の選手の最優秀層は日本を見捨てているのである。

 マスコミ報道のどこかとんちんかんの印象はそんなことが絡んでいるのかも知れない。
 
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2013年10月31日

「『脱原発』実現しつつある日本」(朝日新聞 論壇時評 あすを探る・・・10月31日)を読んで




 小熊英二が、じつは世界で最も「脱原発」が進んでいるのは日本ではないか、と書いているのを読んでいろいろ考えさせられた。報道で見たり聞いたりした範囲では例えばドイツなどに比べて、「脱原発」は遅々として進んでいないような気がしていたが、日本では実は現在原発は一基も動いていないのだ。その事実に、戦争放棄をうたった憲法と同様、日本の民衆の理性の高さをあらためて考え直すと同時に、権力機構、日本のエスタブリシュメントと言われる人々の問題点が逆に明らかになったような気がする。

 政治家、官僚、財界、学会、マスコミが日本のエスタブリシュメントと呼ばれる人々だが、恐らく現在日本では原発が一基も動いていないという事実、しかも当初言われていた原発がないとエネルギーが逼迫するという意見(それは主にエスタブリシュメントから出た意見だが)が見事に覆されつつあるという事実にどう答えるのだろうか。

 明治以来、日本の躍進は主にエスタブリシュメントの力によるものだという考えがこの日本では未だに根づいているが、本当にそうなのか、という疑問が湧く。今回の原発の問題に関して小熊は「民意は脱原発を望み、政財界の抵抗を押し切り、実質的な脱原発を実現しつつある。」と書いている。まさにその通りだとぼくも思うが、反面、安倍首相がトルコに原発を売り込むといったニュースが目につく。恐らく多くの人が「お上のやることは何かおかしい」と思っているのだろうが、官僚も新聞も財界も、表だってはあまり批判していない。中には日本の経済成長には原発の輸出は絶対に必要だと思っているのだろう。商売の倫理からいっても、事故が起きた商品(重大な欠陥がある)を大して反省もなく堂々と売り込むというのは躊躇するのが本当だろう。しかし、その常識が通用する気配はない。おずおずと、表立って批判しない日本のエスタブリシュメン
トとは、一体何なのだろうか。本当に優秀なのか。

 小熊の論を読んでいると、日本の民衆からみた戦後、あるいは明治以来の歴史をあらためて検証する必要があるのではないか。われわれはひょっとすると、まるで違った日本人像を押しつけられていたのではないだろうか、という思いに駆られた。

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ラベル:脱原発 小熊英二
posted by 阿Q at 14:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月21日

自由人としての批評家天野祐吉




このブログでも何回も引用した天野祐吉が亡くなった。その自在で、柔軟な文章は、硬直した世論やそれに便乗した政治やあるいは経済に対してもひるまない力があった。何げない、まるで話言葉そのままの文章は、しかし、独立した例えそれが多数を占める意見に対しても、力強い対抗軸を創る文体を、天野は創った。

 天野は広告批評という新しい分野があることをわれわれに気づかせてくれた。批評や批判というと小林秀雄やあるいはカントなどの名前が浮かぶが、広告というわれわれが一番身近で最も影響を与えるCMや番組に対して、ある時は真正面からある時は側面からまるでゲリラのように、批評、批判を展開した。批評、批判というと否定がまず先にあるような印象があるが、天野のそれはそういう否定的な印象はない。われわれが生きている生活の場からは決して思いつかない言葉やイデオロギー(それはおうおうにして人々を教育するようなものだが)がCMや番組に登場した時、天野は思い切り笑い飛ばしたが、逆にそれが時代の本質を表現するようなものに対しては、われわれがはっとするような鋭い論で肯定し、われわれの世界を広げてくれた。それは明らかに広告や番組の批評を超えてわれわれの胸に届いたといえる。

 TVなどで見た天野祐吉は、文体そのものの自由人ともいえる風貌をしていた。その風貌、語り口は官僚のような冷たさはなくサラリーマンのような組織人の硬さはなかった。まさに自由人とはこういう人だろうなという感じを持った。たまたま昨日、養老孟司をインタビューした番組を見ていたが、養老が誰かに似ていると思ったがそれが天野とすぐ気がついた。風貌のことではない。自由人の体質なようなものだ。養老も学者でありながら、アカデミズムから外れた人だからだろう。その養老が天野と親交があったということを今日の新聞で知った。天野も養老も、自由だから自在に批評、批判を展開出来たのだと思う。

 天野が亡くなって、今後このような自由人がいなくなって、特にCMやTVなどの業界ではスポンサーに取り込まれて毒にも薬にもならない批評しか存在しなくなったらと考えたら、さびしくなった。身近なCMやTVの世界を思い切り笑い飛ばしたり、時に励ましてくれた天野は、われわれの世界を、視点を、豊かに広げてくれた。それはまさに批評そのものである。


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ラベル:養老孟司
posted by 阿Q at 19:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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