2015年12月18日

イデオロギーについて




 イデオロギーというと、マルクス主義や国家社会主義を思い出すと同時に、現代の社会はそういったイデオロギーとは無縁だということが言われている。が、今われわれの生きている社会でイデオロギーは無縁なのだろうか。

 その格好な例をぼくは最近の医学や科学にみる。医学の場合であれば、健康志向に伴い、極端に言えば医者の言うことは何でも正しいということを一般の人々は思い込んでいる。風邪ひとつとってもそのメカニズムが解明されているわけでもないのに医者に行けば治ると信じている。また、前にも書いたことがあるが高血圧もそうだろう。ぼくなどの年代ではほとんどが、血圧の上限140を超えたら降圧剤を飲まなければならないことになっている。医者に行けば、血圧測定だけで、血圧が高い原因などは聞かれずに無条件に降圧剤を飲まされる。血圧が高いという結果だけに特化して原因の方を探ろうとしない医者と、それを頭から信じている患者。これがイデオロギーでなくてなんなのだろうか。

 科学の場合は、イデオロギーというのにはもう少し入り組んでいて複雑である。しかし、例えば原子力に対する神話・・・2011年の福島で崩壊してしまったはずだが、ここにきて再び原発の再開が認められる状況になりつつある。福島の事故は事前の対策が不十分だったから、というわけである。不十分だったのはその通りなのだが、原子力という「科学の最先端」に対する信頼=信仰(?)がなければ、あれだけの事故が起きて数年で再開するということにはならないだろう。原子力という人類がかって見たこともないようなものを「科学的にコントロール」出来るという信仰がなければ出来ない相談である。あの事故以来、原子力に対する内省をわれわれは手にしているのだろうか。そこには科学に対するイデオロギーといっても良いような盲目的な信頼があるだけである。

 科学に関してもう少しみると、最近ロボットの進化(?)に伴って人口知能の研究が盛んらしいが、びっくりしたことがある。もう何年かすると、介護ロボットはもちろん様々な労働の現場で人口知能を搭載したロボットが人間の職場を侵食するというニュースは珍しいものではないが、その人口知能が近々人間と同じような感情を持つこと、そして人間の能力を完全に上回るということを研究者は本気で考えているらしい、ということである。確かに戦争でさえも無人のドローンが爆弾を落とし、自動運転の車が街中を走るのはそう遠くないらしい。そういう意味では人工知能の進化もわからないではないが、人間の、社会から影響を受ける感情、歴史的な感情、性的なものからくる感情などは、現在の科学の持つ範囲をはるかに超えているのである。むしろそれらを排撃してきたものこそ科学ではなかったのか。

 これらの科学=テクノロジーは無限に進化するという確信を、研究者をはじめ多くの人が共有しているとぼくはみている。多くの人は科学の進歩に対して楽観的である、というか、楽観的なイデオロギーが浸透しているともいえる。例えば、人間の労働の半数近くがロボットに置き換わるとか、自動運転の車が普及するとかの話は、ますます人間がいらなくなるということを示している。人間はしぶといからそう簡単にロボットに置き換わるとは思えないが、考えてみたら楽観的に考えること自体を考え直す必要があると思う。

 ぼくが不安に思っているのは、このようなイデオロギーが浸透すればするほど、人文科学や社会科学に対する人々の関心が減少するということである。何ケ月前か、文科省が今後国立大学の自然科学以外の講座が少なくなるだろうといった意味の発言をしていたが、それは一つの現れである。国の制度がなくなるのは構わないが、科学を批判的に相対化する、つまりはイデオロギー化している「科学」を批判的に見る視点が社会からなくなることは、より大きなリスクを社会が背負わなくてはならないのでないか、とぼくは思う。 

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2014年04月28日

「魔術からの解放」?





「STAP細胞」の問題は、小保方さんの論文不正を調査する調査委員会の委員長自身の論文不正問題が発覚するに及んで、日本の科学界をも巻き込んだ大きな問題に発展しそうである。単に「未熟な」研究者の勇み足では済まない問題として大きな議論が巻き起こるだろうし、またそうしなくてはならない問題のような気がする。


 今回の問題を誰かが「知の退廃」と呼んでいたが、科学界や大学、研究所に関係のない普通の人間にとっても「知の退廃」という言葉がぴったりあてはまる。「知の退廃」などと大袈裟な言葉を使わなくとも、不正を正す人間が当の調査対象と同じことをやっていたという話は、「退廃」以外なにものでもないだろう。常識的にはとても通用しない話だが、これが科学の最先端で行われていたということに多くのひとは衝撃を受けたに違いない。ぼくもその一人である。

 いやひょっとしたら、最先端の科学だからこそこのような「退廃」が生まれたのかも知れないと、というようなことも考える。

 今の日本では「科学」といえば、水戸黄門の「葵の御紋」と同じ意味を持つ。猫も杓子も「科学」「科学」であり、「科学」は無条件的に良いことであり、発展することに誰も疑いを抱かない。科学は生活を楽にしてくれるものであり、ときには人間の生命を救ってくれるし、不遜にも自然をもコントロール可能にしてくれる道具として理解されており、「科学」が引き起こしているマイナス面などは見ないようにしているとしか考えられない。「科学」と親和性の高い大学の存在意義は、今では「科学」=理工系の学問でしか価値がないように多くの人は考えており、人文系の学問などは就職のために役立つ実用性の高い学問以外は、文字通り無用だと考えられている。

 「科学」とは科学的思考があって成立する。この科学的思考が宗教のように日本を支配しているように見える。宗教の宗教たるゆえんは無条件に<信じる>ことにある。いちいち宗教に、神様、仏様に、疑問を呈していたら、宗教そのものの成立基盤が崩れてしまうからだが、今の日本で問題と思えるのは「科学」が宗教のように無条件に信じられていることである。「科学」もしくは「科学的」というだけで思考が停止してしまう。そしてそれは人文系の学問まで波及しているのが現状である。「科学」は人間の「思考」と全く同じではない。

 「STAP細胞」問題はこのような「科学万能主義」から起きたものだと考えられる。根本の問題は「科学」が「科学」として成立する核が何かをどこまで理解しているかであろう。今回の問題でも、「科学」について仮説、検証、そして再現性などが科学の核となることとして提出されたが、あまり深く突っ込んだ議論としては取り上げられなかった。もし取り上げられたとすれば、「科学」が万能ではないことの一端は理解されるだろうし、まるで芸能人のスキャンダルのような事件の取り上げ方はなかっただろう。どこか小保方さん自身も理化学研究所も、そしてわれわれも、「科学」がすべての問題を解決できる魔術として考えてはいなかっただろうか。そこから金塊に群がる人間のように、欲に突っ張った「退廃」が生まれたのではないだろうか。

 そういう意味で、今回の事件は「科学」をあらためて考える良いきっかけになるのではないだろうか。おそらく素人目にも「科学」は仮説、それを検証する実験、そして結果の再現性を核とした極めて地味なものである。仮説ひとつとってみても仮説を立案する人間の限界が明らかだろう。人間が考えられるものしか仮説にはならないからである。それだけ考えただけでも「科学」は万能ではないのである。あらためて「魔術からの解放」が今こそ求めらる。

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ラベル:STAP細胞
posted by 阿Q at 14:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月08日

STAP細胞




 STAP細胞の問題が盛んにマスコミを賑わせている。この問題は当事者のデータ改ざんと捏造という問題だけ
にとどまらず、様々な問題を日本社会に投げかけているように思う。

 そんなことを感じたのは、当事者である小保方さんが華々しく登場したときのマスコミの対応、当事者=主役の振る舞い、態度、そして事件の顛末に、どこか今までにないものを感じたからだ。

 STAP細胞の小保方さんについては、ある意味最近の若者の代表みたいな感じを持ったが、それ以上に既存の組織の中で苦節何十年ということではなく、競争によって、つまりライバルを蹴落として突如現れたような印象で、そこに日本の社会の変容をみた。理研という組織は戦前からある組織らしいが、よくよく聞いてみると、世界との激しい競争のなかで、従来の日本社会の年功序列とは違う人事システムの組織らしい。これは最近の大学などとも同じで、5年間の間に業績を上げないと首になってしまう完璧に能力主義の組織ということらしい。そういう組織の中では小保方さんのようなハーバードで研究したとかの学歴、箔がその組織に入ることの必要条件ということだ。最初小保方さんがは華々しく登場したときに盛んに言及されたのがハーバードでの研究歴である。能力主義とはまるで正反対のような気もするが、これは米国社会の能力主義、あるいは最近の日本社会の資格主義(学歴もその資格に入るが)に共通した、能力を評価する際にその中身よりも目にみえるもの重視する思想からだろう。

 マスコミの取り上げ方も特徴的だ。女性、早稲田、ハーバード、理研、そしてipsに対抗するSTAPなどと、これまでの研究者をマスコミが取り上げる仕方とは全く違った属性に飛びつき、必要以上に膨らませたような感がある。日本社会が今までの伝統的な組織に寄り掛かった取り上げ方では間に合わなくなっていることを、小保方さんの例は示している。

 問題はその顛末である。その後理研は記者会見を開いて、事件(?)は小保方さん一人の問題と決めつけたことである。ネイチャーの論文には共著者が数人いたはずであり、素人がみても、共著者に責任がないということは考えられない。さらに組織であるからには、小保方さんの上司にも責任があるというのがこれまでの組織のあり方のはずである。それらを理研はすべて退けた。このことには正直驚いた。これはモラルの問題ではないのか。日本社会の変容とか日本人の変化というよりも、人間としての倫理の問題である。

 この顛末(まだ終わっていないが)が次第に明らかになるにつれ、いささか暗い予感がしてきた。ひとつには先の戦争の責任を結局誰も取っていないということ、そのことが日本社会にさまざまないびつな現象を及ぼしたことを思い出したからだ。たとえばバブル崩壊のときに、日本の企業社会は結局責任を取らずとに長いデフレの一因となった。また最近では原発事故の責任はどうやらうやむやになってしまった。例を挙げればきりがないほどである。STAP細胞の問題もまた、その一つの例になるのであろうか。

 小保方さんの登場の仕方は、世界的な競争にさらされている日本の企業、組織がどんな人物を選抜するのか、それが既存の日本社会にどのようなインパクトを与えるのかを、如実に露わにした。マスコミの報道の仕方がそれを見事に示している。ただ、幸か不幸かドラスチックな形で問題が進展したために、日本社会の暗部が表面に浮かび上がっしまった。それが組織の責任の取り方である。理研はグローバルな企業や組織のチャンピオンのつもりだったのだろうが、何のことはない責任の取り方を見ると戦後の日本社会の企業や組織と同じだったということである。

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