2015年10月30日

トップセールス




 安倍首相が最近の外遊時に「今はトップセールスの時代だ」とインタビューに答えていたことが印象に残っている。確かに中国の周近平国家主席なども、外遊時に何百人の経済人を引き連れてトップセールスを盛んに行っていることは周知の事実だが、成熟した先進国である日本の首相がこういう言葉を吐くと若干違和感を禁じ得ない。

 何もトップセールスが悪いわけではないが、国会をないがしろにして「トップセールス」と言われても、「政治」に対して日本という国は何を考えているのかということを思ってしまうのは私だけであろうか。これに関して半世紀も前の池田首相が欧州を訪問したとき、確かフランスだったと思うが、「トランジスターのセールスマン」と揶揄されたことを思い出した。高度成長期の日本のトップを欧州がどう見ていたかが伺えて興味深いものがあるが、恐らく安倍首相の言葉はそれを自らが肯定し、混乱の続く世界に対して自国の「経済」しか興味がないことを示したことになる。それ以上に、恥かしげもなく「セールス」と言ってしまうことに、安倍政権のあるいは日本という国の<貧しさ>を思う。
 
 「経済」が大事ではないということではない。食うや食わずの人が世界中で何億もいるという現実で「経済」を考えない国家などは非現実であろう。だが自国の「経済」だけが潤うというのもこれまた非現実である。グローバルな世界の中で相互に依存しあう構造にあっては、一方的な「セールス」は帝国主義的な新たな支配が生まれるだけである。こうした「セールス」に対して安倍政権及び日本全体がどこまで自覚的か疑問だが、今のところ報道する方もそういう問題意識はなさそうである。「セールス」は原発であろうが、新幹線であろうが、結局は売上が上がって自国の経済が潤えばいいじゃないかと。

 阿部首相が世界に目を向けることに反対はしない。日本のマスコミも同じであろう。しかし、世界は会社でいう「顧客」あるいは「消費者」とは違う。歴史が違い、宗教が違い、イデオロギーが違い、地政学的な位置づけも違う世界は、単純に「顧客」や「消費者」とは違う。もちろんそんなことは百も承知で「セールス」という言葉を使っているのかも知れないが、いつのまにかわれわれは、外交の場で「セールス」という言葉に慣らされることによって、世界が「消費者」や「顧客」と同じような一義的で・・・それはつまり世界を平板な見方からしか見ないことにつながらないだろうか。世界が混乱しつつある中で、「セールス」などの「経済」の言葉や行動で世界が動くと考えることは、あまりに楽観的である。

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2015年09月30日

誰のための阿倍政権




 安保法制も予想通り強行採決で終わり、世の中一段落のような感じがしてならない。NHKさえも盛んに報道していたマスコミは政府に合わせるようにほとんどもう終わったという報道に変わってきている。決して何も終わったわけではないのに。

 どこかで何度も見た風景である。どこかで見た風景・・・そう原発である。誰かが叫んだ「under control」、まさに終わった後に完全にコントロールされている、つまり問題は一段落である。次はオリンピックであり、安保法制の次は経済というわけである。安倍政権の政策の打ち出し方は、かなり戦略的である。政策が行き詰ったり、多くの人の反対にあうと次から次に新しい政策を打ち出して目を眩ませる。よく考えないと術中に嵌ってしまうのだが、マスコミなどはそのリズムが合うのか、嵌りの典型である。もちろん安倍首相の計算の一部であるのは確かなようである。 笑ってしまうのは、アベノミクス「新3本の矢」である。現在の「3本の矢」の検証も、いや検証の前に実行もされていないのに、「新3本の矢」である。それを堂々と打ち出してくるところに、安倍政権の傲慢さが透けてみえる。

 ただ今回は一段落では済まないだろう。これから安保法制が施行されると、実際に死者が出るからだ。すぐ死者が出るわけではないが、死者が出た時に日本の世論はどう動くだろうか。おそらく安倍政権は、死者をダシにしてナショナリズムを煽る戦略に出るだろう。安倍政権はそこまで考えている、と思う。そうでなければ、安保法制が採決されたばかりで、あれだけもめた国会での採決の後で、大々的に得意げに「次は経済」「一億総活躍社会」とまでいえないだろう。

 要するに、国民は舐められているとしか思えない。学者や元最高裁判事さえも無視する安倍政権だから国民が舐められても仕方がないが、国民までもを恐れずに、一体安倍政権は誰のために何のために統治しているのだろうか。
 
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2015年08月29日

安倍政権の思想について




 安保法制の論議やその後のごたごたを見ていて、ようやく安倍政権の「思想」が明確になりつつある。当初はどうも欧米などが指摘しているように極右政権かなと思っていたが、典型的には先日の70年談話が示しているように、ナショナリズムにもとづいた右翼思想は安倍思想の主要な核ではない。むしろ、談話を見る限り大戦後の戦後レジュームに忠実に従っているようにさえ思う。ただし注釈がいる。いわゆる「脱亜入欧」である。談話ではアジアのことは触れてはいるが、その視点は欧米の進んだ資本主義社会から遅れているアジアを見下すような視点である。「戦後レジューム」+「脱亜入欧」、ここれが安倍政権の思想である。

 さらに重要な点は、小泉政権から引き継いだ「新自由主義」が安倍政権の核に濃厚にみられるということである。いわゆる「新自由主義」とは「市場経済」の社会全体への形式の一般化だが、言い換えると市場経済の、社会への徹底化である。安倍政権の政策をみると、原発も教育も社会保障も、沖縄の基地移転、東北の復興でさえもすべて市場経済のため、経済合理性のためだけに政策が組み立てられているように思える。そこにはナショナリズムも、安倍首相がいう「美しい日本」もむなしく響く。
 
 つい最近も「女性が輝く社会」政策の一環として女性管理職の割合を企業などに義務化する「女性活躍推進法」が参議院で可決されたが、これなどその典型である。成長戦略の一つということだが、単に女性管理職の比率が高まることだけで成長戦略に貢献するとは思えないが、成果主義にみられるような数値によって経済合理性を評価することは新自由主義の本質でもあるのだ。

 新自由主義が資本主義の徹底化=浸透の結果であるとすれば、それは安倍政権だけの専売特許ではない。安倍政権が依然として支持されているのは、新自由主主義が一内閣だけの思想ではなく、われわれの思想として浸透しているからに他ならない。サラリーマンの「成果主義」、教育の「偏差値」などはすでにわれわれの生活の中に、それほど抵抗なく入り込んでいる。それによってどれほどの人が苦しんでいるかに関わらずである。安倍政権はそのことを徹底化しているにすぎない。すべての生活が経済合理性の世界で構築されつつあるというのが、ぼくの見方である。 
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