2013年01月30日

天野祐吉「CM天気図」を読む・・・気持ち悪い広告




 朝日新聞に連載されている天野祐吉の「CM天気図」はいつも愛読している。短いがピリッとした批評精神が面白いからでる。

1月30日の「からだでしゃべる」は、最近感じているCMについての辛口の批評で共感を覚えた。

 それに比べると、番組にせよCMにせよ、いまは頭で、それも脳のうわっつらで作っているようなものが多い。で、そのうすっぺらさが、震災前はそれほど感じなかったのに、いまややたらに気になるようになってきている。 
(朝日新聞「CM天気図」1/30朝刊)


 冒頭の「それに比べると」とあるのは、天野が古いテレビ番組を見る機会があり、その当時の熱気ある=頭で作るよりもからだで番組を作っているということが伝わる事に感心したことから最近のCMと比較したからである。ほとんど同じ感想だが、ぼく自身は「気持ち悪い」CMが増えたなということを感じていたが、それは天野が言うように「頭で作っている」せいだと気づいた。

 つまり自然ではないのである。昔のテレビ番組のように「いいものを作ろうという制作者の意気(息)」が伝われば少なくとも「気持ち悪い」という感覚にはならないはずである。「気持ち悪い」のは「脳のうわっつら」で作っているからだと解釈できる。

 昔は、(今も続いているが)JTであったり、日本郵政公社であったり、銀行などの公的な機関のCMに「気持ち悪い」CMが多かった。意識的か無意識的かはわからないが、彼らの公的と思われる感覚がCMに反映されるから、どうしても「脳のうわっつら」で作られたように感じるし、ぼくように「気持ち悪く」感じるのである。売り手のお上が、本当は消費者をバカにしているくせにお愛想笑いをしているような感じである。

 天野の「震災前はそれほど感じなかったのに」ということも、よく理解できる。「わざとらしさ」にはうんざりしているのである。「わざとらしい」慈善や「わざとらしい」復興の盛り上がりをここ2年間でいやというほど見てきたわれわれにとって、「わざとらしさ」では物事が進まないことを知ってしまったからである。脳に限らず「うわっつら」な態度には白々としたものしか感じられないからである。

 それにしても、公的ではない企業のCMでも、「脳のうわっつらで作っているようなものが多」くなったのはなぜだろうか。ひょっとして、日本の企業の多くが表象的なものにしか価値を見出せなくなってしまうほど白けてしまったのだろうか。
 
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2012年10月17日

ひとりよがりのCM、笑い飛ばすCM



天野祐吉の「CM天気図」(朝日新聞)によると、金鳥の例のおかしいCMシリーズを「金鳥流CM殺法」と呼ぶのだそうだ。なかなかうまいネーミングだなと感心した。だれを殺すのかは不明だが、切れ味鋭くCMの意味を考えさせるということではなるほどと思う。(朝日新聞 10月17日)

 例えば、最近よく見かける変なおばさんが「ご近所の郵便受けに回覧板と称して広告物を強引に押し込もうとする『タンスにゴンゴン』のCM」を称して「あれはCMの自画像」だと天野はいう。要するに、もともとCMはよその家にズカズカと入り込んで「欲しくもないものまで買え買え」というわけだから、本質的におかしいものだというのである。

 最初このCMを見た時に「何というCM」だろうと思った。何で商品を他人の家のインタフォンで連呼するのか意味がわからなかったのだが、何回か見ているうちにおかしくなって、何となく金鳥の意図に同感するようになった。まさに「CMの自画像」なのである。もっと深読みすると、つまり金鳥はどうでもよい商品(失礼!)を売ることにやや後ろめたい感じを持っているのだが、それを真面目に広告するよりも思い切り笑い飛ばすことにより、いくらかでも後ろめたい感じを払拭しようとしているように思える。しかし、それは「欲しくもないものまで買え買え」というCMにあきあきしている消費者には恐らく好意的に受け取られるだろう。金鳥はそこまで消費者が感じることを多分計算に入れて作っている。

 例えば某タバコメーカーや某住宅メーカーの糞面白くない真面目なCMと比較すると良くわかる。それは良き夫、良き妻、賢そうな子供が大抵CMの主役である。そんな家庭など今時少数でしかないのにそれが標準的だと強要する。だから面白くも何ともないのだ。推測するにCM制作者はそんなCMは作りたいとは思っていないだろうが、「良識的」なCMにしないと社内の承認が得られないのだろう。そういったCMが消費者の共感を得られるとは限らない。かえって「良識派」を騙って「人の家にズカズカと入り込んで欲しくもないものまで買え買え」という図々しさを感じるのではないだろうか。

 もっとも、「金鳥流CM殺法」もあまり意図がわかり過ぎて嫌みになるものもないではないが、自分たちの感覚が消費者も共有しているはずだということで感覚までも強要するCMよりは、笑い飛ばす方がよほど良識的である。

 最近のCMが何となく目立たないのは、恐らく消費者をある枠に固め過ぎているのかも知れない。自分たちの商品はこういう生活をしている消費者に買われているはずだという思い込み、良識的であればあるほど支持されるはずだという思い込みが、最近のCMを「ひとりよがり」にし平板にしている。

 天野は「自分のおかしさに気づいていないCMが多い」と嘆いている。CMは社会の自己認識である。自分のおかしさに気づいていない「ひとりよがり」の「平板な」CMが多いということは、今の社会の自己認識ががそうだということを示唆している。「良識的」だが自閉し内向的である。われわれはもっと自分たちの社会を見つめ直す必要がある。

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2012年04月04日

天野祐吉「CM天気図・・・空気が見えない」を読む




 天野祐吉が珍しく、そのコラム「CM天気図」(4月4日朝日朝刊)で怒っている。いつもは、やや砕けた調子で、CMを笑い飛ばす感じで書いているのだが、今日は随分と違う。

 「場違いも間違いの内だ。いまテレビから流れているCMを見ていると、その8割は場違いだという感じがする。」と、冒頭から相当に怒り心頭である。全く同感である。別にCMに倫理観など求めていないが、天野同様、その時代をそれなりに表現しないCMなどが面白いはずがない。それは意識的というよりも自然に表現されるはずであるが、どうも意識的に3.11前に戻そうとしているように思う。

 3.11の後、「頑張ろう日本」とか「絆」とかの「意識的」に日本人を共同体の一員だとみなして縛るような表現があってイヤな感じがした。その時は被災者に対し自然な感情でもあったので仕方がないとは思ったが、その反動が今きているのだろうか。

 天野は、「ぼくらのくらしは、いま大きく変わろうとしている」という認識から、そんな空気に逆らって「これ見よがしにスピードをひけらかす」クルマの広告を例にあげて、それは「場違いだろう」といっている。

 ぼくは3.11の後、日本の企業がどう変わるだろうか、ということを注意深く見ていた。3.11は大きく人々の暮らしを変え、価値観を変えたと思っているが、企業はどうだろうかと思っていたわけである。まあ財界は仕方がないとは思っていたが、普通の企業は今までの高度成長期などとは違った何らかの変化があっても良いはずだという思い込みがあった。残念ながらその兆候はまだ見えないが、天野同様、CMに関してはむしろ退潮しているような感じはしていた。

 天野がいうような「スピード」を強調するCMはもちろんのこと、何よりもCM自体が面白くない。単に効果効能を強調したり、逆に物語を強調したりのCMが多い。そこには生活に対する批評性がなく、幼児的な表現しか見いだせなかった。CMはその企業の無意識を反映している。それはまた消費者である国民の無意識を反映している。

 天野の怒りはよくわかる。天野の怒りは、恐らく企業の内部にいるビジネスマンが何も変わっていないことに対する怒りである。何も考えていないことに対する怒りである。

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