2016年06月01日

隷属のなかの労働・・・シモーヌ・ヴェイユの「工場日記」から




毎日新聞の6月1日の「読書日記」に、作家 津村久子がシモーヌ・ヴェイユの「工場日記」についての書評が載った。以前から気になっていたこの本について、津村は「わからないだろうな」という感想を綴っている。

 「わからないだろうな」という感想は、シモーヌ・ヴェイユが身をもって体験した工場での労働体験を「いい大学を出て世間的に見ていい条件の会社で働いたり、いいと思われる仕事をしていたり、自分が得意なことで仕事をしている人、賢い人」には「わからない」だろうという津村の実感のことである。

 以前、吉本隆明の書評でこの本を知ったが、その時は本当になぜこの本がすごいのかは「わからなかった」。今津村の紹介で再びヴェイユのこの本を読んでみると、労働の、つまり働くことの過酷さ、屈従、その奴隷のような体験があらためて身につまされる。1930年代の工場と現代の社会で働くことの違いは、特に肉体的な面での軽重はもちろんあるが、ヴェイユがこの本で何度も述べていることは、人間の尊厳のことである。津村が引用しているように「重要な事実は、苦しみではなく、屈辱である」という奴隷にも似た労働による屈辱である。

 現代の労働、精神労働にせよ肉体労働にせよ、人間の尊厳にかかわることはどこまで意識されているだろうか。冒頭の一部の人々には「わからない」ような労働の環境で働いている人は多いとぼくは見ている。特に日本のいわゆる「おもてなし」文化と言われているある意味、他人に対して自己を押し殺す、そしてそれを賞賛する「文化」を背景にしたサービス業などに従事している人々は、人間の尊厳に対してどう思っているのだろうか。一部の人には「わからない」さまざまな人々の尊厳を奪われたさまざまな労働に就いているひと、非正規の労働者などには、人間の尊厳といった言葉さえどこか宇宙の果てにぷかぷか浮いているような実体のない言葉に等しいのではなかろうか。

 シモーヌ・ヴェイユのこの「工場日記」が重要だと思えるのはしかし、工場が、労働が「人間の尊厳」を奪っているということ、またそのことを一部の人には「わからない」というだけではない。津村が引用している「食べるために働き、働くために食べ・・・(中略)サイクルこそ、真実が含まれている」や、この本のところどころでピカりと光を放つ言葉、例えば「こういう中にあっては、一つの微笑、一言のやさしい言葉、ほんのわずかな人間的なふれ合いでも多かれ少なかれ特権を持った人間の中のもっとも献身的な友情より、もっと価値がある」、「苦しみのなかで、ゆっくりとではあるけれど、隷属状態にありながら自分の人間的な尊厳の感情をとりもどしてきた・・・(中略)それは、自分がどんなものにも権利を持たないこと、苦しみとはずかしめからまぬがれている一瞬一瞬は、いわば恩寵のようなもの、多くの幸運から生じた一つの結果のようなものとして受け取るべきだという意識」などである。

 こういう人間駅なふれ合いは「そういう心は少ない。ほんとうに少ない、たいていの場合、仲間どうしの関係すらも、この内部を支配している冷酷さを反映している」とヴェイユは冷静に述べる。労働は決して仕事がきついだけではない。そこにあらわれる人間的なふれ合いがない限り人間の尊厳を保持することは出来ない、しかしながらどういう状況にあっても、その可能性は今は低いけれども、人間的なふれ合いがある限り隷属状態から解放される可能性がある、とヴェイユは言っているようである。それは「食べるために働き、働くために食べる」厳しい労働のサイクルの中にある一瞬の真実であり、そういう真実を前にしては「政治なんて、ろくでもない冗談ごとのようにみえる」のである。

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2014年10月31日

漱石の「それから」




たまたまというか、AMAZONで電子書籍を買ったので,そこに無料で配信されている漱石の「それから」を再読した。再読といっても以前読んだのは40年前ほどの昔だから、ほとんどはじめてのような感じで「それから」を読んだことになる。

 今回驚いたのは、漱石がこの「それから」を書いた今から100年前以上の、舞台となった東京の雰囲気が、今の日本の雰囲気にまるでそっくりではないかということである。漱石が朝日新聞に書いたのは1906年(明治39年)からだから、日露戦争が終わった翌年である。日比谷焼打ち事件などがあって、明治維新以来ようやく列強の仲間入りを果たし、世界に対して胸をはって国威を発揚したような時代である。

 昔読んだ時には、主人公の代助の「高等遊民」という意味がいまいち理解できなかったが、上記のような時代背景のなかでなぜ漱石が「高等遊民」を主人公に設定したかがわかった気がする。以前は「それから」を明治の高尚な恋愛小説として読んでいたので、いわば「高等遊民」を貴族主義的なものとしてのみ理解していたのかも知れない。貴族の恋愛・・・よくあるテーマである。

 前に読んだ時には、その、社会に対する微妙な距離感が理解できなかったのである。今回再読してわかったのは、漱石が日露戦争後の日本という国、社会に対して明らかに距離を置いていたということである。その距離を主人公代助の「高等遊民」という役割で表現したのである。

代助は人類の一人として、互を腹の中で侮辱することなしには、互に接触を敢てし得ぬ、現代の社会を、ニ十世紀の堕落と呼んでいた。さうして、これを、近年急に膨張した生活欲の高圧力が道義欲の崩壊を促したものと解釈していた。又これを此等新旧両欲の衝突と見做していた。最後に、此生活欲の目醒しい発展を、欧州から押し寄せた津波と心得ていた。
 この二つの因数は、何処かで平衡を得なければならない。けれども、貧弱な日本が、欧州の最強国と、財力に於いて肩を較べる日の来る迄は、此の平衡は日本に於いて得られないものと代助は信じていた。


 残念ながら、「財力に於いて肩を較べる日」はとっくに日本はなっているにも関わらず、その心性は漱石が嘆いた100年前とほとんど変わっていない。40年前から世界第二の経済大国に既になっていたにも関わらず、である。恐らく、漱石の時代も、また太平洋戦争後の高度成長時代、そしてバブルの弾けた現代も、日本という国は常に「背伸び」をして世界に伍していこうという精神、漱石はそれを「近代」に急かされた日本の精神として捉えたからこそ国民作家となり、古典として日本人に読み継がれる作家になったのだろう。「それから」の代助は、その優れた批評的精神の象徴である。誰でもが無意識に批判的に考えていながら、意識的には「急かされた」日本を肯定する。
 
 「高等遊民」は、極東の貧しい日本においては一種の理想であった。そしてそれは漱石のような鋭敏な知性のみが感受できる理想である。その証拠に「財力に於いて肩を較べる日」がきても、あいも変わらず「急かされた」生活を送り、その挙句閉塞感に常に悩ませられている。日本全体が何かに急かされ、狭い、実験室のような閉塞感の漂う空間のなかで、同じ目標を追い回すラットのように、現代の日本で、「高等遊民」は生きていけるのだろうか。
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2014年05月19日

柄谷行人「遊動論・・・柳田国男と山人」を読む。




 久々の柄谷行人の新作だが、最初雑誌で読んだときなぜ今「柳田国男」なのかがわからなかった。柄谷は本書のあとがきで、いくつかある理由の中で東日本大震災の経験を第一にあげている。実はぼく自身も大震災が起きた時にどういうわけか柳田を読みたいと思ったことがある。なぜかはっきりと意識したわけではないが、日本の社会の大きな変動期を生きた柳田が今回のような大きな地殻変動の時期をどのように見ているかを知りたかったに違いない。それも柳田が持つ独特の文体は、ひょっとすると地殻変動の本当の核を捉えることが出来るのではないかという直観も働いたせいもある。震災後の3年間様々な人が、さまざまなマスコミが震災、及び原発を語ったがことごとく表層に流れてしまい、日本社会の本当の変容を語ることはできなかったからである。

 そういう中で今回柄谷は、柳田が敗戦後、明治以来の日本人を培ってきた価値観の崩壊の中でどのようにその仕事を継続したのか、どのように未来を設計しようとしてきたのか、それよりも何よりも、日本人の生き方をどのように考えていたのかを、おそらく今の日本の状況と重ねながら知りたいと思ったのだろうと推察する。「世界史の構造」のような壮大な歴史を最近の仕事にしている柄谷にしては、極めて珍しく「今」に関係させ論じたのが本書である。

 柄谷はまず柳田の敗戦直前の日記を引用する。

 敗戦の直前に、柳田はこう記した。「八月十一日 土よう 晴れあつし 早朝長岡氏を訪う。不在。後向うから来て時局の迫れる話をきかせられる。夕方又電話あり、いよいよ働かねばなりぬ。」この「働かねばなりぬ」ことには、おそらく、その翌年七月に枢密顧問官に任命されたことがふくまれるだろう。柳田は新憲法の審議に加わったのである。(第一章 戦後の柳田国男 P13〜P14)

 柄谷が引用した柳田の日記の「働かねばなりぬ」という言葉に、少し驚いた。柳田が戦争に対してどのような態度を取っていたかはわからないが、柳田は「反戦」という態度表明はしていないはずだから、この「働かねばなりぬ」はどのように解釈したらよいのだろうか。もし柳田が「反戦」」という態度を鮮明にしていれば、理解可能である。これからの日本をどのようにしたらよいかというモチベーションは戦争中の態度いかんによるからだある。

しかし柳田は公職にこそ就いていないものの、大日本帝国に対して明確に反対していたわけではない。逆説的だがそこに柄谷は、戦前と戦後とを繋ぐ柳田の「可能性の中心」をみる。

 柳田は三度挫折したという。一度目は明治、大正時代の「農本主義」に対して、二度目は敗戦による米軍による「農地改革」であり、そして戦前の植民地政策と同じ流れで米軍の統治が続いた沖縄に対しての挫折である。柳田は一環して次のようなことを考えてきた、と柄谷は云う。それが三度の挫折につながっているというのである。柳田が「非常な飢饉の年に、西美濃の山の中で炭を焼く男が、子供二人を、まさかりで殺した」事件に深い感銘を受けた文章(「山に埋もれたる人生ある事」)を引用して、柄谷は次のように云う。

 これは飢饉によって起こった事件である。しかし、このような事件が起こるのは、飢えた者らが絶望的に孤立しているからだ。柳田の前にはいつも「貧しい農村」という現実があり、それを解決することが彼の終生の課題であった。が、彼にとって「貧しさ」はたんに物質的なものではなかった。農村の貧しさは、むしろ、人と人との関係の貧しさにある。柳田はそれを「孤立貧」と呼んでいた。

 「孤立貧」・・・これこそが柳田が一環して考えてきたことである、と柄谷は柳田を評している。「たんに物質的」な解決であれば多くの政治家や学者が考えてきたことであろう。「貧しさは、むしろ、人と人との関係の貧しさにある。」とは柄谷が柳田を読み込んだ末の結論である。

 「人と人との関係の貧しさにある。」と読み込んだ柄谷のこの言葉に、柳田国男のすべての思想が込められている。今柳田を読む必然はこの言葉にすべて込められていると思う。
( 文春文庫2014年1月20日 発行)


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