2012年09月02日

「暗黙知」といわれるものへの疑問(2)




 「暗黙知」という言葉は、朝日のインタビューで野中郁次郎も述べているようにマイケル・ポランニーが提唱した概念である。野中はそのポランニーの「暗黙知」を経営学の分野に導入し「知識創造理論」を展開したわけだが、経営との関連で次のように紹介している。

 暗黙知という概念を最初に唱えた科学者ポランニーは「我々は語れる以上のことを知っている」と述べています。すべてを科学的に分析し、経営することは不可能でしょう。(9月1日 朝日「よみがえれ日本の経営」)

 野中は暗黙知は科学とは逆のベクトルを持つ概念だと言っているわけだが、暗黙知を経営に反映する意味を次のように説明している。

 私もかっては「経営は科学だ」という旗を振っていた一人でした。米国で博士号を取りましたから。いまでもこの考えは主流で、ビジネススクールでも客観的に分析的にルールやモデルをつくらなければいけないと教えています。しかしそこから何が起きるか。人としての倫理、会社は何のために存在するのか、といった主観の部分が抜け落ちてしまいます。これらはいわばアート(芸術)の世界の価値観です。経営は科学でもあると同時に、アートであることが重要なのです。(同)

 野中は、「暗黙知」とは客観的な分析では掬い取れない知識、別の言い方ではアート(芸術)のようなものである、と言いたいのだろうと思う。野中の言いたい意味はよく分かる。技術に例えれば、職人芸などは言葉やマニュアルでは言い表せない微妙な感覚が、職人の手にはある。それは確かに「客観の世界」ではないだろうとは思う。また、例えばわれわれは、リーマンショックの時に、高等数学で株や商品の動向を予測することは不可能であるということを経験したように、科学的な知見には限界があるということである。それはアートとしかいいようにないものである。

 ただそのことと、野中が言うように「人としての倫理、会社は何のために存在するのか」といった主観の部分」は別のことである。客観が科学で主観はそうでないという論理はどかこおかしい。倫理や「会社の存在理由」は確かに科学ではないが、科学のいわば前提条件である。そういう前提がない科学(経営)が多い、あるいは科学的と称しているルールやモデルでそのような前提をカバーできるという精神がおかしいだけではないのか。

 「暗黙知」に関して野中が言っているのは以上のように「科学」に対する誤解であると思う。「暗黙知」に関して、以前本ブログで紹介した「経済学の船出」の中で著者である安富歩は、まずポランニーの原文に即しての訳自体が野中がインタビューの中で言っているように「我々は語れる以上のことを知っている」ではなく、「語りうることよりも多くのことを知りうる」が正しいとしたうえで、次のように野中の「知識創造理論」を批判している。

 つまり、知るという過程は、知るという過程によって知ることができない。それゆえ「暗黙知」というのである。これを、早合点論者のごとく、暗黙知を知識の一種という意味に受け取ってしまうと、ポランニーの言うことは意味がわからなくなってしまう。典型的誤用の例は、経営学の分野における野中郁次郎らによる知識創造理論である。この理論を信奉する人々は、暗黙知を「語り得ない知識」と早合点したうえで、それらを形式知(=語りうる知識)とを分離できると想定する。(中略)彼らはさらに、両者を相互に変換可能と考えた。暗黙知を形式知に転換して共有することで、組織効率が上がる、というのが彼らの主張の眼目である。(経済学の船出、P98)

 安富はポランニーの「暗黙知」という概念は、「知るという過程」であって、「暗黙的知識」という実体があるわけではない。ましてや「暗黙知」と「形式知」が転換可能というのは明らかな誤用だ、としている。ポランニーからみると、野中の「暗黙知と形式知を総合して新しい実践知をつくっていくことが重要」という言葉は誤用ということになる。

 もし安富(ポランニー)が言うように「暗黙知」は実体化できるものではないとすれば、野中の「暗黙知」は何を想定しているのだろうか。恐らく先にみたように「アート」のようなものとか「職人芸」のようなものを想定するしかないが、問題はあいまいな定義しかなり得ないことである。果たして多くの人が参画する「経営」に、あいまいな定義の概念が使えるものだろうか。

 繰り返すが、野中の朝日のインタビュー記事の全体的な内容に関しては異論がない。ただ「暗黙知」ももちろんそうだが、「知のダイバーシティー(多様性)」だとか「知の構造改革」、さらには「アジャル(機敏な)スクラム」などのきらびやかな概念を使う前に、日本企業が置かれている現状で、それが何を意味し、どういう効果があるのかといった実践的な定義=ノウハウを創ることが先で、それが今<マーケティング>に必要なのではないかと思う。そう、日本企業に必要なものは、今<マーケティング>・・・つまり売るための仕組みであり、<マーケティング>を使いこなすための実践的な概念だということを、前回の本ブログ(8月31日「シャープの敗戦」)に続いて再度強調したい。
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posted by 阿Q at 15:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 新しいマーケティング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月01日

「暗黙知」といわれるものへの疑問




 昨日シャープの苦境についてブログに書いたら(「シャープの敗戦」)、タイミングよく本日の朝日新聞にそれに関連したインタビュー(「よみがえれ日本の経営」)が掲載された。シャープだけではなく東電がなぜ失敗したのか、そして失われた20年間を経て日本の会社経営がなぜ劣化したのか、「暗黙知」で有名な野中郁次郎教授にインタビューしたものだ。

 内容は、東電の閉鎖的な体質、日本の会社が米国のビジネススクールの影響を受けて長期的な視点が持てなかったこと、シャープの亀山ブランドの垂直統合への批判など、全体的に賛同できるものである。ただ野中の真骨頂である「暗黙知」に関しては、正直よくわからない。よくわからないというより、無理やり「暗黙知」と日本の会社の経営の問題を関連づけていることが、よくわからない理由のように思う。短いインタビュー記事という制約があるので一概に批判するのは早急だが、どうやら「暗黙知」といわれるものがややあいまいな感じがするのである。

 例えば、野中は日本企業の製品開発の優れた点についてこんなことを言っている。

 ホンダの小型車やキャノンのプリンター、富士ゼロックスのコピー機などの画期的な製品の開発者に聞くと、「私はこれがやりたいんだ」とまず語るんです。最初に個人の直感や主観があって、その信念や価値を組織にぶつけて説得しながら形にしていく。分析や客観ありきではなく、暗黙知と形式知を総合して新しい実践知をつくっていくことが重要だと気づいたのです。

 「最初に個人の直感や主観があって」がなぜ「暗黙知」に結び付くのかがわからない。もちろん野中は「分析や客観ありきではなく」の部分が言いたかったというのはわかる。わかるが、そんなことはある意味当たり前ではないか。商品を生み出す行為というのは、客観的な資料、その分析が先にあってそこから帰納的、あるいは演繹的に行うわけではなく、出来あがった製品を思い浮かべること(製品をイメージするところ)から始まるというのは至極当然であり日本だろうがアメリカだろうが同じだと思う。そのイメージを説得する場合や補強する場合に客観的な資料を用意したり分析したりする。別にそこに「暗黙知」や「形式知」、それを総合した「実践知」などの「概念」を持ちだす必要があるのだろうか、というのが一つ。

 また野中はシャープの液晶技術の失敗について次のように言う。

 シャープは液晶の生産技術を国内の亀山(三重県)に垂直統合して、外から見えないブラックボックス化で競争力を維持しようとしたのです。技術のブラックボックス化で競争力を維持しようとしたのです。液晶の生産技術はノウハウであり、暗黙知の部分が多い。それを守りさえすれば強いはずだと思いこんだ。しかし、韓国のサムソンは日本の技術者を高額で雇い、暗黙知を形式知として経営に取り込み、グローバル展開を始めた。暗黙知をブラックボックスにするだけでは、汎用化のスピードに対応できないことに日本企業は気がつかなかったのです。

 「技術のブラックボックス化で競争力を維持しようとしたのです。」という部分はわかる。つまり技術が外部に漏れないようにするための垂直統合で競争力を維持するという意味なら理解できるが、そのブラックボックスが暗黙知だけでは汎用化のスピードに対応できない、と言うのは何を言っているのかよくわからない。そもそも暗黙知が日本企業の競争力の源泉なのではなかったのか。野中が言いたかったのは恐らく、暗黙知を形式知として取り込むことが出来なかったので汎用化のスピードに対応できなかったのではないか、ということだろうと思う。では暗黙知とは何かということが次に問題になるが、ここではノウハウという意味で暗黙知を使っている。暗黙知≒ノウハウという理解で良いのだろうか。もしそうであれば、ここでもわざわざ「暗黙知」などと言う必要があるのだろうか、というのが二つ目の疑問である。

 前述したようにインタビュー全体ではほとんど同感だが、「暗黙知」関して言うとぼくには良く分からなかったというのが正直なところだ。次回にもう少し「暗黙知」に関して考えてみようと思う。
(次回に続く)

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posted by 阿Q at 21:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 新しいマーケティング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月31日

シャープの「敗戦」・・・マーケティングの不在

 


 今年の夏(まだまだ暑さは続くみたいだが)の一番のビジネスニュースと言えば、シャープの巨大損失額、それに伴うリストラの発表であろう。何といってもその規模には驚く。

 奥田社長は'13年3月期の連結業績予想を2500億円の赤字になると大幅に下方修正したうえ、従業員の約1割にあたる5000人規模の人員削減を行うことも明かした。現代ビジネス「経済の死角」)

 2500億円の赤字というのも驚くべき数字だが、人員削減が5000人というのには今までのリストラとはその迫力が違う。2500億円も5000人も大会社の年間売り上げと従業員数に匹敵する。これだけの業績悪化があのシャープで進行していたとは驚くべきことだが、ぼくはなぜか戦艦大和のことを想い出した。

 たまたまTVで、太平洋戦争当時世界最大の砲身を持つ世界最強の巨大戦艦大和が、一発の砲弾も打たずに撃沈されたドキュメンタリーを見ていたからだ。今まで何度も言われているように大和の失敗は、戦争が巨大戦艦が主力の時代から航空機の時代に変化したことを軍部が見逃していたことによる。真珠湾に見られるように日本軍は航空機の威力を知らなかつたわけではない。恐らく戦術的に航空機が戦争の帰すうを決めることは早い時期に日本軍は分かっていたはずである。それなのに巨大戦艦の建造を決断したのはなぜか。

 これは想像だが軍の内部での葛藤があったのではないか。周知のとおり太平洋戦争前の日露戦争は戦艦同士の戦いであった。その勝利の経験が、軍の内部でのDNAになっていたことは想像に難くない。よく言われるように成功体験を否定することは難しい。いかに合理的に考えて結論を出そうが、脳に刻み付けられた体験の方を優先するのは人の常だろう。日本軍もその図式どおりに踏襲したのだろうと思う。多分、この大和の失敗の原因は多くの研究が存在しているだろうから、ここで屋上屋を重ねることはしないが、ここで言いたいのは、シャープの失敗がそれに似ているということであり、それはまた日本の多くの企業で日々起きていることではないかということである。

 シャープはぼくのような業界の素人でも感じていたように、製品開発でも広告の宣伝でも先進的な会社だと思う。液晶ビューカム、ザウルス、液晶TVのアクオスなど先進的な製品開発、そして「目のつけどころが違う」などの印象的なキャッチコピーなど、シャープはその名の通り「シャープ」な存在感を示していた。そのシャープが、TVで亀山ブランドなど液晶では世界トップシェアを誇っていたのがあっという間に世界のメーカーにシェアを奪われたのである。多くの日本メーカーと同じように価格競争に巻き込まれたことがその理由だが、その要因として挙げられているのが「品質」への過剰なこだわりである。消費者がTVに要求する品質は既にほぼ満足されているのに対して、シャープはそれ以上に「品質」にこだわり価格競争についていけなかったというのが、大方の見方である。

 この見方に対してぼく自身は半分は本当だと思うが半分は疑問がある。「品質」にこだわるのはメーカーとして当然であり、こだわらないメーカーは消費者から見放される。問題はその「こだわり方」であり、その「こだわり方」と価格との関係である。恐らくシャープの場合は、価格との関係を逸脱するほどの「こだわり方」に傾いていったのだろう。その現れが「垂直統合モデル」である。この「垂直統合モデル」に、亀山ブランドにみられるようにシャープがこだわった結果が今回の業績悪化に繋がった。

 この「垂直統合モデル」は、先に紹介した同じ「現代ビジネス・経済の死角」の中の別の記事「シャープ元幹部が実名で明かす日本のテレビが韓国製に負けた本当の理由」で、元幹部が言う<自国至上主義、自前主義>である。ここに戦艦大和が負けたことと同じ理由を見ることが出来る。<自国至上主義、自前主義>は高度成長時代に日本が取った戦略である。自国の「品質」に絶対的に自信を持った日本の製造業がこだわった戦略である。大和が日露戦争の成功体験のこだわりと同じことを60年後にシャープは持ったことになるのである。

 シャープが「垂直統合モデル」にこだわった理由はわからない。バブル崩壊後日本の製造業の「垂直統合モデル」の問題点は既に指摘されていたはずである。製造業のグローバリゼーションは既に進んでいたはずである。グローバル企業であるシャープがそれを知らないはずがなかったとぼくは思っている。恐らく、シャープを初めとする多くの日本企業の問題点はここにある。マーケティングに対する軽視である。

 マーケティングの基本中の基本は、消費者を知ることである。多くの家電製品がわれわれの生活の中で必需品化する中で、高度成長時代の、家電製品が神器という位置づけからコモデティー化したことを、あるいは日本以外の国ではもともと家電がコモデティー化していることを、シャープは取り違えたのではないか。それが価格競争に対して鈍い反応として表れ、結果的に過剰な「品質」を是とし、それが亀山ブランドにみられる究極の「垂直統合モデル」への流れとなったのではないかと思う。そこにマーケティング=消費者を知ることの軽視がみられるのである。

 マーケティングが本当に日本の企業に浸透しているかどうかについて、ぼく自身は依然として疑問をもっている。今回のシャープの苦境はその疑問の正当性を裏付けている。正直言ってあのシャープがマーケティングを知らなかったとは思いたくないが、結果はその通りになった。多くの日本企業はシャープとどっこいどっこいだろう。

 少しずつマーケティングという名称が日本企業の部署の名前として定着しつつあることは認めるが、マーケティングが何をすることか理解している企業は少ないのではないか。多くは単に消費者調査する部署だとか、あるいは営業のスタッフ部門、良くて広告部門程度しか認識していないのではないかと思う。

 マーケティングは魔法を使う部門ではない。それが存在したからといって、売り上げが上がるわけではない。ただ自社の製品が、消費者の生活の中でどんな使われ方をして今後どう変化するか、競合製品の中で自社製品がどう位置付けられているか、自社製品の技術の進化は消費者の中でどう理解されるかなどを知り、それをどう販売戦略、生産戦略、竸品開発戦略に生かすかなどを考えることは、今後ますます必要になると思う。それは営業部門や広告部門や調査部門の兼任でやれる仕事ではなく、専任の部門にすべきだとぼくは思う。シャープにそういう部門があるかどうかは知らないが、少なくともそういった機能が機能しなかったことは確かである。
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posted by 阿Q at 16:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 新しいマーケティング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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