2013年03月23日

梶井基次郎「桜の樹の下には」




 桜の樹の下には屍体が埋まっている!

 梶井基次郎の有名な一節だが、桜が急に咲き出した今年も、この一節を思い出す。なぜこれほどまでに見事に咲くのか。その見事さを表現したくとも、うまく言えない。梶井のこの一節より見事な表現を知らない。

 今回あらためて「桜の樹の下には」の短い全文を読んで、梶井がなぜこの表現に至ったかがわかったような気がする。梶井は美しさに嫉妬したのだ。あまりの美しさに嫉妬し不安に思ったのだ。

 俺には惨劇が必要なんだ。

 美しさを美しさとして表現するなど、梶井の頭にはない。あまりの美しさに梶井の頭の中には「信じられない」という気持が起こったのだ。それが梶井を不安に陥れ、梶井は嫉妬という言葉を使っていないが、美しさに動揺し、湧きあがってくる不安を何とか鎮めなくてはならないために、嫉妬のような感情をもったのではないか。何かがあるはずだ。この美しさには何かが隠されているはずだ。

 馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐乱して蛆が湧き、堪らなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚めて、その液体を吸っている。

 グロテスクな屍体、そこからたらたらと流れる水晶のような液体。梶井は桜の美しさの秘密が、その下に埋まっている屍体から吸い上げる液体によるものだということを知る。

 いくつかの惨劇の果ての屍体、美しい桜。これ以上の対極がないかのように並べることによって、桜の美しさが際立つのである。

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posted by 阿Q at 13:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月11日

文学の力・・・リアリティーの喪失




 今でもカフカなどを読むと、人間の普遍的な力についての希望が湧いてくる。決して普遍的とは言えない地域や人物を描いているのだけれども(小説はほとんどそうだけれども)、人間がうごめいている、人間が運命に翻弄される、あるいはもっと俗にいうと人間が生きているということが納得させられる。それは日本の近代小説の古典ともいえる作品を書いた漱石にも同じようにいえる。明治という100年以上前の作品であってもまるで今の時代の人物のように感じられることが、漱石の古典たる由縁だろう。決して古びない現代性、それが普遍的な文学の力になるのだ、と思う。

 しかしながら、今、文学の力などという人はいないだろう。文学が何かに役立つというのは昔も今もなかったが、文学にたいする期待が違う。これは柄谷行人がいったことだけれども、かって「政治と文学」ということが社会的な論争になったことがあった。それは「政治」に対して「文学」に力があったからだ。今「文学」は「政治」に拮抗するほどの力はない。柄谷は次のようにいう。

 文学の地位が高くなることと、文学が道徳的課題を背負うこととは同じことだからです。その課題から解放されて自由になったら、文学はただの娯楽になるのです。(中略)そもそも私は、倫理的であること、政治的であることを、無理に文学に求めるべきでないといえます。はっきりいって、文学よりも大事なことがあると私は思っています。(「近代文学の終わり」 2005年)

 

「近代文学の終わり」で柄谷は、「文学が道徳的課題を背負う」時代があったことを歴史との関連で詳細に述べている。そして現代は「すでにその役割を果たし尽くしたと思っている」という。その理論的な仕事をここで検討する能力はないが、実感的には柄谷の述べていることは、その通りだと思う。40年前には誰もサルトルの小説を論じ合った。今は、そのような作家はほとんどいない。1年たったら途端に忘れられてしまう今の芥川賞と違って、その頃の芥川賞作家の権威ははるかに高かったことを覚えているとともに、売れていない文学でも、芥川賞を取らなくとも、「大事なこと」を発信している作家の権威は高かった。今は売れていない作家はほとんど無視される。部数がすべてだ。

 柄谷はそれでも構わないという。「文学よりも大事なこと」があるから、それを追求すればよいのではないか。何も「文学」に期待しなくともいいのではないか、という。柄谷のいう「文学よりも大事なこと」が何なのかはわからないが、ぼくは「文学」は依然として「大事なこと」を発信するべきだと思っている。今は古典にしかそれを期待することはできないが、今でも「文学」が「大事なこと」を発信する可能性はぼくは依然として高いとみている。それが「文学」という形式になるのかどうかはわからない。哲学になるのか、社会学になるのか、ノンフィクションなのか、形式はどんな形でもよいが人間についてよりリアリテイーがあって普遍的なもの、それは結局、広い意味で「文学」になるような気がする。

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posted by 阿Q at 23:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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