2016年04月30日

思想としての政治




 ある地震学者によれば熊本地震の前に活発な前兆があったわけではなく、実際はまったく逆でほとんど静寂ともいえるほど何も起きなかった、つまり大地震の前兆としての地震はなかったという。地図でみると九州全体が白い空白に覆われていたらしい。普通素人が考えると、活発な前兆としての地震があってその延長で大地震が起きると考えるが、そうではないらしい。そして今までの大地震にもその傾向はあるらしい。

 今の日本の政治状況は、それに似ている。自民党、民進党の今後の選挙に向けてのかけひきはあるが、あくまで2大政党(といっても自民党の独裁に変わりはないが)の間でのかけひきであって政治が動いているとはいえない。また社会の側でも、待機児童、少子高齢化、貧困の問題などが単発的に国会で論じられているが、いかにも辻褄合わせ、その場しのぎの議論しか見えてこない。政治が日本の社会のあり方として、関わるべき構想として見えないばかりか、何か政治に関して白紙=つまり何もないかのような感さえみられる。これらの問題は「国家とは何か」に関わる極めて政治的な問題にも関わらず、政治家側でも国民の側でも大きな問題として認識しているようには見えない。もし認識していればこれらの問題に共通している日本社会のあり方に対してもう少し、体系的、継続的な議論は起きているに違いないのだ。まるでこれらの問題があっても小手先の対応で間に合うように、主に行政だけの問題で対処できると考えているようだ。大地震の前の白い空白の地図のように問題はまだ顕在化していない。顕在化したときは既に遅いのに、だ。

 結局、今日本で起きていることに対して政治が機能していないということだが、ここでいう政治とは政治家だけ、行政だけの問題ではない。むしろ、政治を政治家だけ行政だけの問題にしてしまうことによって、どれだけ問題を矮小化してしまうか、福島の例をみればわかる。住民の意見を参考にしたといいながら、福島の復興がどれだけ一面的な復興になってしまっているか。ここでいう政治とはいわば思想のことである。待機児童でも少子高齢化でも貧困の問題でも、われわれは正面から取り組まなければならない思想の問題である。小手先で問題を処理すればするほど、現代の資本主義的=新自由主義的な解決に委ねてしまうことになるだろう。それが手っ取り早いからである。

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posted by 阿Q at 17:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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