2014年04月28日

「魔術からの解放」?





「STAP細胞」の問題は、小保方さんの論文不正を調査する調査委員会の委員長自身の論文不正問題が発覚するに及んで、日本の科学界をも巻き込んだ大きな問題に発展しそうである。単に「未熟な」研究者の勇み足では済まない問題として大きな議論が巻き起こるだろうし、またそうしなくてはならない問題のような気がする。


 今回の問題を誰かが「知の退廃」と呼んでいたが、科学界や大学、研究所に関係のない普通の人間にとっても「知の退廃」という言葉がぴったりあてはまる。「知の退廃」などと大袈裟な言葉を使わなくとも、不正を正す人間が当の調査対象と同じことをやっていたという話は、「退廃」以外なにものでもないだろう。常識的にはとても通用しない話だが、これが科学の最先端で行われていたということに多くのひとは衝撃を受けたに違いない。ぼくもその一人である。

 いやひょっとしたら、最先端の科学だからこそこのような「退廃」が生まれたのかも知れないと、というようなことも考える。

 今の日本では「科学」といえば、水戸黄門の「葵の御紋」と同じ意味を持つ。猫も杓子も「科学」「科学」であり、「科学」は無条件的に良いことであり、発展することに誰も疑いを抱かない。科学は生活を楽にしてくれるものであり、ときには人間の生命を救ってくれるし、不遜にも自然をもコントロール可能にしてくれる道具として理解されており、「科学」が引き起こしているマイナス面などは見ないようにしているとしか考えられない。「科学」と親和性の高い大学の存在意義は、今では「科学」=理工系の学問でしか価値がないように多くの人は考えており、人文系の学問などは就職のために役立つ実用性の高い学問以外は、文字通り無用だと考えられている。

 「科学」とは科学的思考があって成立する。この科学的思考が宗教のように日本を支配しているように見える。宗教の宗教たるゆえんは無条件に<信じる>ことにある。いちいち宗教に、神様、仏様に、疑問を呈していたら、宗教そのものの成立基盤が崩れてしまうからだが、今の日本で問題と思えるのは「科学」が宗教のように無条件に信じられていることである。「科学」もしくは「科学的」というだけで思考が停止してしまう。そしてそれは人文系の学問まで波及しているのが現状である。「科学」は人間の「思考」と全く同じではない。

 「STAP細胞」問題はこのような「科学万能主義」から起きたものだと考えられる。根本の問題は「科学」が「科学」として成立する核が何かをどこまで理解しているかであろう。今回の問題でも、「科学」について仮説、検証、そして再現性などが科学の核となることとして提出されたが、あまり深く突っ込んだ議論としては取り上げられなかった。もし取り上げられたとすれば、「科学」が万能ではないことの一端は理解されるだろうし、まるで芸能人のスキャンダルのような事件の取り上げ方はなかっただろう。どこか小保方さん自身も理化学研究所も、そしてわれわれも、「科学」がすべての問題を解決できる魔術として考えてはいなかっただろうか。そこから金塊に群がる人間のように、欲に突っ張った「退廃」が生まれたのではないだろうか。

 そういう意味で、今回の事件は「科学」をあらためて考える良いきっかけになるのではないだろうか。おそらく素人目にも「科学」は仮説、それを検証する実験、そして結果の再現性を核とした極めて地味なものである。仮説ひとつとってみても仮説を立案する人間の限界が明らかだろう。人間が考えられるものしか仮説にはならないからである。それだけ考えただけでも「科学」は万能ではないのである。あらためて「魔術からの解放」が今こそ求めらる。

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タグ:STAP細胞
posted by 阿Q at 14:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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