2014年04月08日

STAP細胞




 STAP細胞の問題が盛んにマスコミを賑わせている。この問題は当事者のデータ改ざんと捏造という問題だけ
にとどまらず、様々な問題を日本社会に投げかけているように思う。

 そんなことを感じたのは、当事者である小保方さんが華々しく登場したときのマスコミの対応、当事者=主役の振る舞い、態度、そして事件の顛末に、どこか今までにないものを感じたからだ。

 STAP細胞の小保方さんについては、ある意味最近の若者の代表みたいな感じを持ったが、それ以上に既存の組織の中で苦節何十年ということではなく、競争によって、つまりライバルを蹴落として突如現れたような印象で、そこに日本の社会の変容をみた。理研という組織は戦前からある組織らしいが、よくよく聞いてみると、世界との激しい競争のなかで、従来の日本社会の年功序列とは違う人事システムの組織らしい。これは最近の大学などとも同じで、5年間の間に業績を上げないと首になってしまう完璧に能力主義の組織ということらしい。そういう組織の中では小保方さんのようなハーバードで研究したとかの学歴、箔がその組織に入ることの必要条件ということだ。最初小保方さんがは華々しく登場したときに盛んに言及されたのがハーバードでの研究歴である。能力主義とはまるで正反対のような気もするが、これは米国社会の能力主義、あるいは最近の日本社会の資格主義(学歴もその資格に入るが)に共通した、能力を評価する際にその中身よりも目にみえるもの重視する思想からだろう。

 マスコミの取り上げ方も特徴的だ。女性、早稲田、ハーバード、理研、そしてipsに対抗するSTAPなどと、これまでの研究者をマスコミが取り上げる仕方とは全く違った属性に飛びつき、必要以上に膨らませたような感がある。日本社会が今までの伝統的な組織に寄り掛かった取り上げ方では間に合わなくなっていることを、小保方さんの例は示している。

 問題はその顛末である。その後理研は記者会見を開いて、事件(?)は小保方さん一人の問題と決めつけたことである。ネイチャーの論文には共著者が数人いたはずであり、素人がみても、共著者に責任がないということは考えられない。さらに組織であるからには、小保方さんの上司にも責任があるというのがこれまでの組織のあり方のはずである。それらを理研はすべて退けた。このことには正直驚いた。これはモラルの問題ではないのか。日本社会の変容とか日本人の変化というよりも、人間としての倫理の問題である。

 この顛末(まだ終わっていないが)が次第に明らかになるにつれ、いささか暗い予感がしてきた。ひとつには先の戦争の責任を結局誰も取っていないということ、そのことが日本社会にさまざまないびつな現象を及ぼしたことを思い出したからだ。たとえばバブル崩壊のときに、日本の企業社会は結局責任を取らずとに長いデフレの一因となった。また最近では原発事故の責任はどうやらうやむやになってしまった。例を挙げればきりがないほどである。STAP細胞の問題もまた、その一つの例になるのであろうか。

 小保方さんの登場の仕方は、世界的な競争にさらされている日本の企業、組織がどんな人物を選抜するのか、それが既存の日本社会にどのようなインパクトを与えるのかを、如実に露わにした。マスコミの報道の仕方がそれを見事に示している。ただ、幸か不幸かドラスチックな形で問題が進展したために、日本社会の暗部が表面に浮かび上がっしまった。それが組織の責任の取り方である。理研はグローバルな企業や組織のチャンピオンのつもりだったのだろうが、何のことはない責任の取り方を見ると戦後の日本社会の企業や組織と同じだったということである。

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posted by 阿Q at 13:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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