2013年02月14日

ジャン=クレ・マルタン「フェルメールとスピノザ 永遠の公式」を読む





 スピノザのエチカにとって”永遠”はキィーワードとも言える重要な語だが、ある意味難しい語でもあるし、誤解されやすい語でもある。永遠を単純に時間性として捉える限り、パスカルの言うようにこの世の時間は一瞬のことにすぎなくなり、死ぬことでしか永遠を獲得できない。スピノザの倫理学は生の倫理学だからこれは矛盾している。

 本書は、スピノザの”永遠”をフェルメールの絵画を素材にして解読したものである。あるいはフェルメールの絵画の魅力を、スピノザの”永遠”を軸に解読したものである。共に1632年に生まれ、比較的近くに住んでいた二人は、しかしながら2人に交流があったという証拠はない。しかし著者は、彼らの作品からかなり密接な関係があったと推定しているどころか、協働関係にあったと推定している。お互いに影響を与えたというのである。

 フェルメールには何か言葉にならない魅力がある。例えば有名な「真珠の耳飾りの少女」は、あどけない少女が見る先は画家であり鑑賞している者だが、その視線はそれを超えた”永遠”のようにも見える。その微笑には生が持つ根源的な見る者を吸い込ませるような喜びがあり、”永遠”を見据えた視線はその喜びを表現しているように見える。著者はそのことを次のように表現する。

 きわめて特異な輝きのなかに置かれた「真珠の耳飾りの少女」は、ひとつの顔貌の要点、漂える欲望の精髄を提示している。

 「漂える欲望」とは、「”喜び”に向かう生産的動き」であり、「”真なるもの”にまでよじ上ろうとする観念」である。「真珠の耳飾りの少女」が見る者に強く訴えるのは、そしてスピノザの”永遠”が意味しているのは、いわば生への欲望であり、それがフェルメールの絵画を魅力的にしているのかも知れない。

 スピノザの”永遠を生の”喜び”と読むことにより、この小さな(そして美しい)本は、フェルメールの「永遠のかたち」、「内的な輝き」に満ちた作品と接合する。いや逆かも知れない。フェルメールによってスピノザの”永遠”をより理解できるのかも知れない。それほどフェルメールとスピノザが近いということを、教えてくれた本である

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posted by 阿Q at 17:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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