2012年07月30日

c.シュミット「政治的なものの概念」を読む(3)




 「政治的なもの」の本質を、シュミットは「友・敵の区別」と定義している。あまりにも簡潔な定義のようだが、われわれの「政治」が何であるかの定義自体、曖昧模糊としている。普通「政治」なる語を、合意形成や闘争、統治などの客観的な言葉で規定する一方で、陰謀であったり、駆け引きであったり、妥協であったりとあまり良い意味では使っていないように思われる。むしろ一般的には後者の使い方の方が多い。それが「政治」の本質を規定しずらいものにしているが、シュミットはそのことを十分踏まえて「友・敵の区別」というように簡潔に、しかも核心を捉える規定をしている。

 核心といってもあくまでシュミットの考える定義の上でだが、「友・敵の区別」という定義は明確である。シュミットは「友・敵の区別」を次のように説明している。

 すべての政治的な概念、表象、用語は、抗争的な意味をもつこと、それらは、具体的な対立関係をとらえており、結局は、(戦争ないし革命の形をとってあらわれる)友、敵結束であるような具体的状況と結び付いていて、この状況が、消滅するときには、すべて無内容な、幽霊じみた抽象と化するのである。

 政治的なものの本質とは「抗争的な意味をもつこと」であり、戦争や革命などの「友、敵結束であるような具体的状況」、これがシュミットの「友・敵の区別」の内容である。シュミットは「友・敵概念」を、隠喩や象徴ではなく、「具体的・存在論的」な意味として捉えている。つまり、「敵」とは他者、異質者であり、それ以外は「友」である。その極端の例が対外的には戦争であり、内部的には革命などの内戦であるとしている。

 シュミットが想定している「政治」は国民国家間の戦争を第一義的に考えているが、革命のような内乱をも想定している。シュミットの「政治的なるもの」の定義の特徴は、すべての「政治」が最終的には抗争を意味していることを規定したことである。「戦争」や「革命」がその極端な例であるが、逆に言うと、「友・敵」が結束する状況が政治的な状況であるといえる。例えばシュミットはビスマルク時代の教会、労働組合の例をあげている。

 教会であれ、労働組合であれ、さらには両者の同盟であれ、ビスマルク帝国が戦争を行なおうとしたばあい、それを禁止ないし阻止はしなかったであろう。もちろん、ビスマルクは、教皇に向かって宣戦することはできなかったが、それはただ、教皇自身が、もはや「交戦権」をもたなかったからにすぎない。社会主義労働組合もまた、「交戦相手」として登場しようなどとは考えもしなかったかにすぎない。いずれにせよ、当時のドイツ政府が、重大事態にかんして判定を下すさい、みずから政治的な敵となり、この概念のあらゆる帰結を身にこうむることなしに、もしくは反抗の意志をもちえたような、いかなる機関もかんがええなかったであろう。事実、教会も労働組合も内乱を起こそうとはしなかったからである。

 教会も労働組合も、シュミットの「政治的なもの」=「政治的な敵」にはならなかったのである。なぜなら両者ともビスマルクに対して対外戦争を阻止できなかった、つまり、「友・敵」が結束する状況、これは内戦を意味するが、両者ともそれを作らなかったからである。その意味では教会も労働組合も「政治的なもの」という概念には当てはまらないと、シュミットは言っているのである。

 この「政治的なもの」の概念規定は、前回の本ブログで書いたように、シュミットの自由主義に対する批判、それは結局現代の民主主義的な国家に繋がる多元主義的国家の批判に繋がるのである。
(この項続く) 

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posted by 阿Q at 15:01| Comment(1) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんにちは! ブログ拝見させて頂きました。とても勉強になりました。この度当方も新しいブログを立ち上げました。よろしければお時間があるときにお立ち寄りくださいませ。また訪問させていただきます。どうもありがとうございます。
Posted by 富田エンジェル福太郎 at 2014年02月20日 23:11
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