2012年02月05日

最近の「政治」について



 最近の「政治」は全くといって良いほど面白くない。面白くないというのは、別に政治はエンターテイメントではないので普通の意味で面白い必要はないのだが、どこかよそよそしく、我々の生活、生きていく上で芯になる心情の奥底に訴えるものが何もない、という意味である。

 最初景気の低迷や原発の問題などが絡んだ閉塞感から「政治」が面白くないのかなと思っていたが、どうもそれだけではないと考えるようになった。逆に「政治」の低迷がここへきて誰の目にも明らかになったことが、閉塞感を作りだしているのではないか、そんな風に思うようになった。

 ハンナアレントの「政治の約束」という本を読んでいたら、こんなことが書いたあった。
 

 ソクラテスは、市民一人ひとりが自らの真理を産み出すのに手を貸して、都市をもっと真実に溢れたもの(truthful)にしたかったのである。(中略)すなわちソクラテスは、市民を教育したいと思うよりは、むしろ市民のドクサを改良したいと思ったのである。(中略)政治的に言って、ソクラテスがやろうとしていたのはアテナイ市民を友人に仕立てあげることだったのである。それこそが、ポリスにおける、すこぶる当然の目的に外ならなかった。なぜならポリスの生活は、万人に対する万人の、激しく止まるところを知らない競争、要するに自分が誰よりも優れた存在であることを不断に誇示することから成り立っていたからである。

 ソクラテスとはあの「悪法も法なり」といってアテナイの法廷から死刑の判決を受けた、あのソクラテスである。ぼくはソクラテスもアテナイもポリスもほとんど知らないし、ましてやソクラテスがなぜ死刑判決を受けたかについても全くわからなかった。漠然とよく政治学者がポリスの「政治」を理想的な「政治」として引用するのを読んでいただけである。

 ハンナアレントのこの本によって、というか上記の引用文によってソクラテスのやろうとしたことが今で言う啓蒙の哲学者ではなかったかということを知った。戦争と革命の現代史を知っているものにとって今時ソクラテスなどを引用するのはあまりにナイーブすぎるような気がするが、われわれが「政治」といものを考える上で、あるいは「政治」とは何かを考える上での原点となるような気がする。アレントも「 歴史的にいえば、哲学と政治の間に深淵が開いたのは、ソクラテスの裁判と有罪宣告のときであった。」と書いているように、「政治」というものを考える上での原点であった。

 「都市をもっと真実に溢れたもの(truthful)にしたかった」というストレートでシンプルなソクラテスの考えは、厖大な国家機構、統治機構の中での「政治」を見ている者にとって、何事も示唆していないように思える。しかしどんなに国家が巨大になっても、「政治」はわれわれ一人ひとりからしか出発できないはずである。アメリカの草の根民主主義がタウンから出発したように、「政治」にとって個人が、そこから派生するアレントの言葉でいう「複数性」が原点である。

 アレントのこの本は、ソクラテスについてあるいはポリスについて、プラトンの政治思想と絡めて延々述べていてこんな単純なことを書いているわけではない。だが、今の日本の政治に欠けているものを、ソクラテスのこの引用文はズバリ指摘しているようにぼくは思う。「もっと真実に溢れたものにする」ことこそ広い意味での「政治」の役割なのかもしれない。

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posted by 阿Q at 17:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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