2011年03月01日

日本の若者はなぜデモをしないのか・・・「偏差値」的価値の一元化

 毎日新聞が「デモしない若者たち」の特集を組んでいる。(毎日 3月1日 夕刊

 ぼく自身もなぜこれだけ痛めつけられている日本の若者が、今中東で遼原の火のように広がっている若者中心のデモや、先進国ではフランスの高校生のデモのように、抗議の声を上げないのか不思議に思っている。あるいはマスコミに報道されないだけで実際は日本の各地で広がっているのかも知れないが、社会的な広がりに欠けていることは確かである。

 これだけ若者の失業率が高く、職に就いても不安定な非正規労働、長時間労働、賃金未払いなど劣悪な労働条件にさらされている若者が、なぜデモのような社会的な抗議行動に出ないのか。実はこれは決して若者だけではなく、中高年、あるいは老年、要するに日本全体の問題で、特に若者だけの問題ではなく、日本全体に社会を変革するという発想がないことが問題なのではないか。いってみれば、社会がその構成員である個人によって変えられるという「信」が持てないからだと思っている。変えられるという「信」の前にあきらめが先にきているからではないかと思われる。

 なぜ「信」が持てないのか。「信」を持ったことはあるのか。日本の場合、すぐ思い付くのが、今の団塊の世代が若いころに”活躍”した全共闘運動がある。確かに全共闘の時代は、若い層が大学から社会までに広がる射程で抗議行動を起こした最後の時代である。ただその前には60年安保、戦前にはあの暗黒の時代に、東大の「新人会」や地下に潜った運動などがあり、近現代だけでも、日本の歴史では必ずしも「信」に基づく抗議運動がなかったわけではない。それがなぜ全共闘以後、ぱたりとなくなってしまったのか。

 大胆な仮説を提示するとすれば、ぼくは「偏差値」の導入、その結果である「偏差値」的価値への一元性が日本全体に広がったためだと思っている。

 いわずとし知れた教育の場における「偏差値」である。いつ頃、どの教育段階で導入されたかはわからないが、多分1970年代以降に、大学のランクづけのための偏差値導入が最初ではなかったかと思う。大学進学率の増加、大学の急増などに伴って導入されたのが初めてだったかと思うが、それが大学はもちろんのこと、高校、高校以下の学校、そして今は会社、就職まで、要するに全社会的に「偏差値」は広まり、それが日本全体に「偏差値」的価値として、日本の社会に浸透した。

 偏差値とは全体の中での個人の成績の位置づけである。学校の場合であれば、自分の成績が全体(個々の学校の場合も、全国の場合もある)でどの位置にあるかが数字で客観的にわかってしまう。またそれを敷衍して、学校自体が全体でどのランクの学生、生徒が入学しているのかがわかり、その結果学校のランクが数字で客観的にわかる。

 数字で客観的にわかる・・・これがミソである。ややこしい個人の主観なぞが入る余地はない。数字はウソを付かないというわけである。だけどこれが本当に客観的なのかというと、もちろん単純にそうとは言えない。偏差値を出すためのテスト自体の内容が、ある価値観のもとに作られた内容であれば結果は、それを反映したうえでの”客観的”であるにすぎない。テスト=教育の内容が客観的かどうかを決める。日本の教育が”客観的”にみて、能力を伸ばす教育かどうかは疑問である。そもそもテストによって能力が測れるという考え自体が、ある一つの価値観である。

 いずれにせよ偏差値で測れるのは、人間の能力の中の一部分にすぎない。それが、数字で客観的に測れるという信仰から、どうも人間の能力の全てと誤解しやすい、実際にそういう誤解の上で使われているのが偏差値である。まるで偏差値の高い方が人間が上等であると。

 子供のころから”お前の偏差値はこれだ”と言われ続けているとしたら、どうなるのだろうか。子供のころから社会のなかでヒエラルキーが決められているようなものではないだろうか。 もちろん誰にでも偏差値を上げることが出来る”制度”は開かれている。本人の学習努力という”制度”だが、最近の研究によると、世帯年収によって入れる学校が決まってしまうという。そうなると、本人の学習能力自体が、本人の努力ではどうにもならない経済力というヒエラルキーで決まってしまう。日本には階級制度がないと云われているが、これは立派な階級制度ではないだろうか。

 階級制度は、一度決められたならば、固定化しやすい。日本のエスタブリシュメント層に二世が多いというのはそのことから説明できる。固定化しやすいということは、ヒエラルキー下方の人間が下方にとどまらざるを得ないということをも意味する。1970年以降の日本社会全体に階級移動が少ないということ(実証されているわけではないが)、このことが若者に限らず社会的な抗議行動が起きないことの大きな要因だと考える。

 知識を得る、そうなることが社会全体の活力に繋がるという価値観は、日本だけではなく近代社会全体の価値観である。だが1970年代以降の日本では、このことだけが人間の価値を決める、それも知識を得るための学校に入るということだけに価値を見出し、それをヒエラルキー化した。それが現代の日本である。「偏差値」的価値の一元化である。

 そのヒエラルキーを切り崩すことは相当のエネルギーを要するだろう。だが、あらゆる面でそのヒエラルキーが行き詰ってきた現在、そのヒエラルキーが自壊する兆候は至る所に表れてきている。
 
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posted by 阿Q at 18:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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