2015年05月29日

「国家」と新自由主義




「国家」がせり出してきつつあることを実感している。昨年からの秘密保護法制定、そして最近の安保法制などの報道に接していると普段は「国家」などを意識しないで生きているが、否が応でも「国家」の中にしっかりと組み込まれていることを感じる。特に安倍政権になってから「国家」が日常のどこにでもあるように感じるのは、安倍政権がいかに「国家」を国民に意識させているかを表しているように思う。

 「国家」を意識するということを考えるうえで恐らく対極的なのは戦後のすぐの時代なのではないだろうか。大日本帝国という「国家」が消滅した時代、もちろん実感ではわからないが、戦争が終わったとき憑き物が落ちたように感じたということを何かで読んだ記憶がある。何かわからないが身に纏わりつくような何か、普段は意識しないがどこかで意識を強いられるようなもの、それが「国家」というものの実感レベルでの普通の人の反応である。

そういう意味では戦後すぐの「憑き物が落ちた」ような反応はよくわかるような気がする。戦時中であればそれこそ「国家」が丸ごと生活の中に入り込んでいたであろうからそれがなくなった時の解放感は、よくわかる。

 今、その「国家」があらためて普段の意識に上っている。日本が高度成長の時代でもその後の低成長の時代でもそれほど「国家」が意識に上ったという記憶はない。高度成長の時代は「国家」というよりも日本の社会の「社会」が意識の上位にあったように思う。「国家=政治」は二流でも経済は一流というような揶揄はそれを表現している。また低成長下でも「国家」は何もできないといった笑いものの対象としてあった。事実「国家」は自由主義という日本が受け入れていると考えられるイデオロギーからは本来経済に対して介入しないという意味で、それは当然であった。

 最近は経済の面でも安倍政権の活躍(?)は目立つ。経済人を伴った地球儀を俯瞰する外交にであるとか、露骨な円高誘導、日本の農業を壊滅状態に導くように見えるTPP、世論に逆らってまで進めようとしている原発政策などなど、いわゆる財界と呼ばれる産業人が喜ぶ政策を次々と打ち出している。ただそれは産業人が喜ぶといっても「国家」が産業に介入しているようにも見える。少なくとも、産業が自発的に日本の社会をリードしているとはみえないのである。

 さきほど云ったように自由主義の定義からはアダムスミスを呼び出すまでもなく「自由放任」が原則である。次々と「国家」が経済にまでも介入しようとする安倍政権の政策をみると、恐らくこれが「新自由主義」と呼ばれる新たな政策であるといえないこともない。「新自由主義」を「新帝国主義」と呼ぶ人もあるが、国民国家内部の矛盾を海外進出によって解決する「帝国主義」に安倍政権は着々と近づいているとみるのはぼくだけであろうか。
 
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posted by 阿Q at 17:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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