2012年05月15日

消費社会




「暇と退屈の倫理学」(國分功一郎)の中にはっとした記述があった。消費社会を特徴づけているは、実は物の過剰ではなく物の希少性にあるというのがそれである。物が溢れているのではなく、本当は物が足らないということであると、國分はボードリヤールの消費社会論を念頭に言っている。

 どういうことであろうか。ボードリアールは御存じのように現代社会の消費を記号として捉えた論者として有名である。バブル時代の日本で「記号と戯れる」とか「記号化社会」としてボードリヤールの消費社会論を援用しながら、日本の消費社会が「豊かな」「ソフィスケートされた」ポストモダンの世界最先端の社会としてもてはやされたことがあった。

 國分はこのことについて、次のようなことを本文ではなく注で書いている。

 彼(ボードリヤール)の議論は消費社会の擁護として受け止められている。これはかってもいまも、ボードリヤールを論じた者たちが実際にはこれっぽっちも読んでいなかったことの証拠に他ならない。

 実はぼく自身もこの文章の中の「ボードリヤールを論じた者たち」と同じようなことを感じていたように思う。まさかボードリアールが消費社会を擁護していたとは思わなかったが、記号が物の消費としての役割を果たしていたことについて、肯定的に評価していたことについては多くの論者と同じような理解だったと思う。つまりボードリアールをまともに読んでいなかったことになる。ボードリヤールは書いている。

 現代の日常生活では、多くの場合、消費は導かれた消費性として、生産性の命令に服従している。それゆえ、ほとんどの場合、モノは場ちがいに存在しているので、モノの豊かさ自体が逆説的ではあるが貧しさを意味している。
『消費社会の神話と構造』今村仁司、塚原史訳)



 消費社会は、かっての社会と異なり消費が生産をリードするとまことしやかに語られ、従って消費者の豊かさを追求することが社会の豊かさに繋がるとされる。確かに消費者のニーズを探究する企業が成功を収め、消費者を無視した企業は市場から退場していることは事実である。しかし、「消費者」として括るその括られる「消費者」とは誰なのか、ということを考えてみる必要がある。生産が主導する「消費者」ではないのか、というのがボードリヤールの立場である。

 ボードリアールは「消費」を、G・バタイユの消費の理論ももとにした根源的なCONSUMATION(焼き尽くすこと、燃え尽きること、激しい昂揚)として捉えているように思える。そこから現代の消費社会を、生産というCONSUMATIONとは対極のコンセプトがリードする社会を「貧しさ」として捉えているのである。そこから、CONSUMATIONとは対極のコンセプトが記号として成立するのは必然的なのだ。ちょうど生産において部品をすべて記号化するように。

 國分が(ボードリヤールが)「希少性」と呼ぶのは、このモノが生産の都合で供給されるからである。「生産者が売りたいと思う物しか、市場に出回らないのである。消費社会とは物があふれる社会ではなく、物がなさすぎるのだ。」(國分、前掲書)この指摘をあらためて今考えてみる必要があるように思える。

 われわれは本当に「豊かな社会」に生きているのだろうか。次々と新製品が出現する中で、生産の都合でしか消費者は存在していない。モノが溢れているように見えて、実はモノがないのではないか。モノだけではない。「政治」も「教育」も「情報」も、ボードリヤールが言うように「余暇」でさえも、ただ忙しいように見えて時間を(時間までもだ!)「消費」しているだけではないか。本当にCONSUMATION(焼き尽くすこと、燃え尽きること、激しい昂揚)する環境がますます減っているように思える。すべてが記号化する中で、われわれの<生>はますます貧しくなっているように感じるのだ。

 「消費社会論」とは、このような「消費」が社会のあらゆる分野に浸透しつつある中で、それを批判的に克服する理論であって欲しいと思う。

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2012年05月10日

若者の過労自殺




 NHKの「ニュースウォッチナイン」で若者の過労自殺の特集を見て、驚いたというよりやっぱりという感じがした。このところ大震災の悲惨な出来事に目を奪われて、労働現場の過酷な状態を見過ごしてきたなということである。

 中高年の働き過ぎからくる過労自殺が今までの自殺の中心だったと思うが、最近は就職氷河期以降に入社した若者の過労自殺が増えているという。一歩間違えると非正規に転落しかねない中で過酷な労働条件をも受け入れざるを得ない若者、それを強制する会社/社会の図式が想い浮かぶ。憲法記念日がつい先日あったが、憲法が保障する「健康で文化的な生活」は恐らく自殺した若者にとっては無縁だったのだろう、TVでみた若者の生活は残業月100時間以上、それも徹夜に近い深夜労働ばかりという過酷なものであった。

 以前最近の若者が入社してすぐに辞めるということが話題になったが、このような過酷な労働もその要因であったのだろうか。そのように考えると、若者のこらえ性とかの問題ではない。慣れない仕事を覚えなければならない若者が、深夜残業ばかりで休みが取れないような職場を辞めるのは当然である。むしろ辞める方が自然で、われわれは若者を責めることはできない。責められるべきは、そのように若者を追い込む会社であり社会である。若者の自殺と早期離職率の高さは相関の関係にある。

 TVでは効率一辺倒で若者を育てる余裕が会社/社会に無くなってきたことに原因をがあることを示唆していたが、確かに不況で余裕がなくなったということは言えるが、一方で憲法も人権も日本ではまだ根付いていないことをこのことは表しているのではないだろうか。

 戦後、民主主義が成熟し、今不況とはいえ豊かさを達成した日本で、年間自殺者数が世界一、若者の過労自殺も増えているということは、社会の弱い層に困難のしわ寄せ、問題を押し付けていることを示している。そんな状態で何が成熟した民主主義だ、何が国民所得が世界で3番目だということを言いたくなるが、それが今の日本の現実である。

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2012年05月05日

すべてを疑うこと・・・少子高齢化の現実




 めったに新聞の社説は読まないけれども、今日の毎日新聞の社説は読ませた。「『肩車型』の常識を疑え」というのがタイトルだが、「肩車型」つまり現役(15〜64歳)と高齢者(65歳以上)の人口構成・・・現役の支える負担が大きくなる・・・という主に経済的な悲観論に対して、その常識を疑ってはどうかという提言である。

 常識では「支えられる側」の人口比率が高くなるに伴って、「支える側」の負担が大きくなる、というものである。人口構成的にはその通りである。社説では、「支える側」と「支えられる側」の定義を「働いて所得を得て」いるかどうかとすると、ここ数十年「支える側」と「支えられる側」の比率はほとんど変化がないということである。常識では単に年齢だけ、65歳になったらすべての人が働かないとみているが、ここ数十年の動きはその常識を覆していて、つまり「支える側」の負担に変化がないというわけである。従来は働かないとみていた主婦が共働き世帯になり、またこれも従来は働けなかった障害者の雇用が進み雇用率が高まったこと、さらに65歳以上で働いている人も「以前と比べものにならないほど多くなった」というのがその理由である。

 言われてみればその通りで、高齢者というだけで自動的に「支えられる側」になるというのもあまりに単純な話で、それに伴った社会の変化を無視していることになる。ただそれも無理のない話で、わずか半世紀前までは60歳以上の人が働くなどという常識はなかったし、共働きの主婦も今のように過半数を占めていたわけではない。それが今に引き続いているのである。昔の現実に合わせた常識がそのまま踏襲されているわけである。

 しかしながら、そういう常識があるとはいえ、ここ数年の少子高齢化に対する社会の不安感は少し異常なような気がする。今まで真剣に考えなかったことに対する反動だろうか。あるいはそこに何か意図的なものはあるのだろうか。

 もちろん意図的なものがあるとは考えずらいが、従来の常識をもとにしたイデオロギーではないかという疑問はある。誰もが少子高齢化を言い、誰もが社会の危機を言う。その典型が政府である。確かに社会保障費の伸びは年間一兆円を超える事態は唯ごとではない。何とかしないと大変なことになることは間違いがないが、それが一気に悲観論になるのはなぜだろうか、一気に増税だけの話になるのはなぜだろうかというのがぼくの疑問である。

 例えば先にあげた「肩車社会」・・・「支える側」と「支えられる側」の比率の問題である。毎日の社説にあるように、定義を変えてみれば、「支えられる側」というのは様々なバリエーションがあり、今まで見えなかった層も「支える側」になる可能性があるし、悲観論も違って見えてくるだろう。問題はなぜそういう思考が働かないかということである。イデオロギーではないかというのはそういう意味である。

 65歳以上の雇用の問題を考えてみよう。今ハローワークにいっても60歳以上の求人はほとんどない。せいぜい期間限定のアルバイト、あるいはよくて契約社員である。これも要するに期間限定だから、いつも首を心配する。60歳がこれだから65歳になると、もう限りなく求人は0である。中には年齢不問というのもあるが、これはあくまでハローワークの叱責を恐れた会社の方便である。実際の応募になると60歳未満しか受け付けない。いや実際はもっと下の年齢かもしれない。政府はあくまで「年齢不問」という強制力を伴ったアリバイを楯に高齢化に対処していると強弁している。少しでも内情を知っている人にとって、ハローワークと会社の茶番劇であるとしか言いようがない。

 政府はあるいはそれに便乗しているマスコミは、高齢者の現実を知っているのである。知っているからこそ、一方で高齢者を雇用すべきという法律、あるいは「年齢不問」という小手先のやり方で対処しているというアリバイを作り、一方で増税のための「肩車社会」の厳しさというイデオロギーを流布しているのである。もし本当に「肩車社会」の問題を考えているのならば、もっと様々な「支えられる側」を「支える側」にするバリエーション・・・雇用の可能性を追求するための雇用の流動性、実際の効果を伴った高齢者雇用の法律、あるいはワークシェアリングなどの施策を考えるはずだからである。

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posted by 阿Q at 18:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする