2016年07月29日

撃つべき価値観




 ついに起こるべきことが日本で起きた。相模原の重度障害者への殺傷事件だ。

 ここ数年、幼児や高齢者などの弱者に対する虐待事件が目立つようになっていたが、ここにきて重度障害者という最も弱い者に対しての、虐待どころか残虐な殺害に至る事件が起きてしまった。その弱い者に対するあまりの”直接性”に慄然とするしかいいようがないが、一歩立ち止まってみると、一連の幼児虐待や高齢者虐待の延長にあることはすぐ了解は出来る。ただ了解は出来るが、感覚的というか生理的というか、何とも後味の悪い嫌な感じはどうしても残る。どうしてこんなことが出来るのか。歴史はいかに人間が残酷になれるか
を示しているが、この日本であっけらかんとしたどこにでもいるような青年がこのような残虐な事件を起こしたいうこと、それに驚く。

 ユダヤ人虐殺の実行者であるアイヒマンの裁判を傍聴したハンナ・アレントは、その平々凡々たるドイツ人将校であるアイヒマンが実はその平凡さゆえに史上最大の”悪”を行い得ることを、「悪の陳腐さ」「悪の凡庸さ」という言葉で表現した。今回の容疑者の表情や言動が断片的に伝わっているが、それを見る限り、実存的な動機や深淵な思想があるとは思われない。スポーツマン的であり、明るいどこにでもいるような青年のように見える。平凡な人間が大胆なことを実行したという意味でどこかアイヒマンに似ているような感じがぼくには見えるが、今回の容疑者である青年と史上最大の”悪”を実行したアイヒマンを重ね合わせることは飛躍しすぎであろうか。

 アイヒマンを連想したのは奇しくもナチスが20万人もの知的障害者を殺したことにある。独特な優生思想でユダヤ人を”劣等人種”であるとし600万人ものユダヤ人を虐殺したナチスはまた、知的障害者などを役立たない”人種”と見做したのである。つまり自分より劣等と見做した”人種”、また社会に役にたたない”人種”をすべて抹殺したのである。こうしたナチスの犯罪を担った実行者であるアイヒマンは、平凡な日常生活の延長でユダヤ人の抹殺を実行した。それが恐ろしい。平凡な人間が社会の表層的な思考に無批判的に従う時、誰でも巨大な悪に誰でも加担してしまうのだ。「悪の陳腐さ」「悪の凡庸さ」とはそういうことである。

 今回の容疑者は、たった40分間の間に40人もの人を襲ったようだが、その手口はまるでルーチンの仕事のようである。生身の一人の人間がたとえ深夜だとしてもわずか40分のうちに生身の人間を、19人もの人を殺すことが出来るとは到底思われない。まるでスポーツのように軽やかに殺したとは思いたくないが、あまりの手際の良さに、恐らくこの容疑者は相手を人間ではなく、転がっている材木のようにしか思っていなかったのではないか。

 知らず知らずのうちに、知的障害者が劣等だという思考、人間とは見なさない思考は、それほど突飛な思考とは思えない。われわれの身の回りを考えてみれば、例えば人間を序列化する思考があふれており、その最底辺に知的障碍者がいる。そういう思考にとって、知的障碍者は人間ではないのである。今回の容疑者は、恐らく現代社会の表層的な思考・・・人間の価値を役に立つか立たないかで判断する、その中心は経済的価値である・・・に意識的か無意識的か、に従っているのだろう。それは決して今回の容疑者に限っているわけではな
く、今の日本の主導的な価値である。とてつもない壁だが、撃つべきはこの価値観である。

ちょっとでもなるほどと思ったら、クリックをちょこっと。
       
blogram投票ボタン

人気ブロ

グランキングへ 



posted by 阿Q at 21:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月01日

隷属のなかの労働・・・シモーヌ・ヴェイユの「工場日記」から




毎日新聞の6月1日の「読書日記」に、作家 津村久子がシモーヌ・ヴェイユの「工場日記」についての書評が載った。以前から気になっていたこの本について、津村は「わからないだろうな」という感想を綴っている。

 「わからないだろうな」という感想は、シモーヌ・ヴェイユが身をもって体験した工場での労働体験を「いい大学を出て世間的に見ていい条件の会社で働いたり、いいと思われる仕事をしていたり、自分が得意なことで仕事をしている人、賢い人」には「わからない」だろうという津村の実感のことである。

 以前、吉本隆明の書評でこの本を知ったが、その時は本当になぜこの本がすごいのかは「わからなかった」。今津村の紹介で再びヴェイユのこの本を読んでみると、労働の、つまり働くことの過酷さ、屈従、その奴隷のような体験があらためて身につまされる。1930年代の工場と現代の社会で働くことの違いは、特に肉体的な面での軽重はもちろんあるが、ヴェイユがこの本で何度も述べていることは、人間の尊厳のことである。津村が引用しているように「重要な事実は、苦しみではなく、屈辱である」という奴隷にも似た労働による屈辱である。

 現代の労働、精神労働にせよ肉体労働にせよ、人間の尊厳にかかわることはどこまで意識されているだろうか。冒頭の一部の人々には「わからない」ような労働の環境で働いている人は多いとぼくは見ている。特に日本のいわゆる「おもてなし」文化と言われているある意味、他人に対して自己を押し殺す、そしてそれを賞賛する「文化」を背景にしたサービス業などに従事している人々は、人間の尊厳に対してどう思っているのだろうか。一部の人には「わからない」さまざまな人々の尊厳を奪われたさまざまな労働に就いているひと、非正規の労働者などには、人間の尊厳といった言葉さえどこか宇宙の果てにぷかぷか浮いているような実体のない言葉に等しいのではなかろうか。

 シモーヌ・ヴェイユのこの「工場日記」が重要だと思えるのはしかし、工場が、労働が「人間の尊厳」を奪っているということ、またそのことを一部の人には「わからない」というだけではない。津村が引用している「食べるために働き、働くために食べ・・・(中略)サイクルこそ、真実が含まれている」や、この本のところどころでピカりと光を放つ言葉、例えば「こういう中にあっては、一つの微笑、一言のやさしい言葉、ほんのわずかな人間的なふれ合いでも多かれ少なかれ特権を持った人間の中のもっとも献身的な友情より、もっと価値がある」、「苦しみのなかで、ゆっくりとではあるけれど、隷属状態にありながら自分の人間的な尊厳の感情をとりもどしてきた・・・(中略)それは、自分がどんなものにも権利を持たないこと、苦しみとはずかしめからまぬがれている一瞬一瞬は、いわば恩寵のようなもの、多くの幸運から生じた一つの結果のようなものとして受け取るべきだという意識」などである。

 こういう人間駅なふれ合いは「そういう心は少ない。ほんとうに少ない、たいていの場合、仲間どうしの関係すらも、この内部を支配している冷酷さを反映している」とヴェイユは冷静に述べる。労働は決して仕事がきついだけではない。そこにあらわれる人間的なふれ合いがない限り人間の尊厳を保持することは出来ない、しかしながらどういう状況にあっても、その可能性は今は低いけれども、人間的なふれ合いがある限り隷属状態から解放される可能性がある、とヴェイユは言っているようである。それは「食べるために働き、働くために食べる」厳しい労働のサイクルの中にある一瞬の真実であり、そういう真実を前にしては「政治なんて、ろくでもない冗談ごとのようにみえる」のである。

ちょっとでもなるほどと思ったら、クリックをちょこっと。
       
blogram投票ボタン

人気ブロ

グランキングへ 





posted by 阿Q at 21:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月30日

思想としての政治




 ある地震学者によれば熊本地震の前に活発な前兆があったわけではなく、実際はまったく逆でほとんど静寂ともいえるほど何も起きなかった、つまり大地震の前兆としての地震はなかったという。地図でみると九州全体が白い空白に覆われていたらしい。普通素人が考えると、活発な前兆としての地震があってその延長で大地震が起きると考えるが、そうではないらしい。そして今までの大地震にもその傾向はあるらしい。

 今の日本の政治状況は、それに似ている。自民党、民進党の今後の選挙に向けてのかけひきはあるが、あくまで2大政党(といっても自民党の独裁に変わりはないが)の間でのかけひきであって政治が動いているとはいえない。また社会の側でも、待機児童、少子高齢化、貧困の問題などが単発的に国会で論じられているが、いかにも辻褄合わせ、その場しのぎの議論しか見えてこない。政治が日本の社会のあり方として、関わるべき構想として見えないばかりか、何か政治に関して白紙=つまり何もないかのような感さえみられる。これらの問題は「国家とは何か」に関わる極めて政治的な問題にも関わらず、政治家側でも国民の側でも大きな問題として認識しているようには見えない。もし認識していればこれらの問題に共通している日本社会のあり方に対してもう少し、体系的、継続的な議論は起きているに違いないのだ。まるでこれらの問題があっても小手先の対応で間に合うように、主に行政だけの問題で対処できると考えているようだ。大地震の前の白い空白の地図のように問題はまだ顕在化していない。顕在化したときは既に遅いのに、だ。

 結局、今日本で起きていることに対して政治が機能していないということだが、ここでいう政治とは政治家だけ、行政だけの問題ではない。むしろ、政治を政治家だけ行政だけの問題にしてしまうことによって、どれだけ問題を矮小化してしまうか、福島の例をみればわかる。住民の意見を参考にしたといいながら、福島の復興がどれだけ一面的な復興になってしまっているか。ここでいう政治とはいわば思想のことである。待機児童でも少子高齢化でも貧困の問題でも、われわれは正面から取り組まなければならない思想の問題である。小手先で問題を処理すればするほど、現代の資本主義的=新自由主義的な解決に委ねてしまうことになるだろう。それが手っ取り早いからである。

ちょっとでもなるほどと思ったら、クリックをちょこっと。
       
blogram投票ボタン

人気ブロ

グランキングへ 



posted by 阿Q at 17:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。