「暇と退屈の倫理学」(國分功一郎)の中にはっとした記述があった。消費社会を特徴づけているは、実は物の過剰ではなく物の希少性にあるというのがそれである。物が溢れているのではなく、本当は物が足らないということであると、國分はボードリヤールの消費社会論を念頭に言っている。
どういうことであろうか。ボードリアールは御存じのように現代社会の消費を記号として捉えた論者として有名である。バブル時代の日本で「記号と戯れる」とか「記号化社会」としてボードリヤールの消費社会論を援用しながら、日本の消費社会が「豊かな」「ソフィスケートされた」ポストモダンの世界最先端の社会としてもてはやされたことがあった。
國分はこのことについて、次のようなことを本文ではなく注で書いている。
彼(ボードリヤール)の議論は消費社会の擁護として受け止められている。これはかってもいまも、ボードリヤールを論じた者たちが実際にはこれっぽっちも読んでいなかったことの証拠に他ならない。
実はぼく自身もこの文章の中の「ボードリヤールを論じた者たち」と同じようなことを感じていたように思う。まさかボードリアールが消費社会を擁護していたとは思わなかったが、記号が物の消費としての役割を果たしていたことについて、肯定的に評価していたことについては多くの論者と同じような理解だったと思う。つまりボードリアールをまともに読んでいなかったことになる。ボードリヤールは書いている。
現代の日常生活では、多くの場合、消費は導かれた消費性として、生産性の命令に服従している。それゆえ、ほとんどの場合、モノは場ちがいに存在しているので、モノの豊かさ自体が逆説的ではあるが貧しさを意味している。
『消費社会の神話と構造』今村仁司、塚原史訳)
消費社会は、かっての社会と異なり消費が生産をリードするとまことしやかに語られ、従って消費者の豊かさを追求することが社会の豊かさに繋がるとされる。確かに消費者のニーズを探究する企業が成功を収め、消費者を無視した企業は市場から退場していることは事実である。しかし、「消費者」として括るその括られる「消費者」とは誰なのか、ということを考えてみる必要がある。生産が主導する「消費者」ではないのか、というのがボードリヤールの立場である。
ボードリアールは「消費」を、G・バタイユの消費の理論ももとにした根源的なCONSUMATION(焼き尽くすこと、燃え尽きること、激しい昂揚)として捉えているように思える。そこから現代の消費社会を、生産というCONSUMATIONとは対極のコンセプトがリードする社会を「貧しさ」として捉えているのである。そこから、CONSUMATIONとは対極のコンセプトが記号として成立するのは必然的なのだ。ちょうど生産において部品をすべて記号化するように。
國分が(ボードリヤールが)「希少性」と呼ぶのは、このモノが生産の都合で供給されるからである。「生産者が売りたいと思う物しか、市場に出回らないのである。消費社会とは物があふれる社会ではなく、物がなさすぎるのだ。」(國分、前掲書)この指摘をあらためて今考えてみる必要があるように思える。
われわれは本当に「豊かな社会」に生きているのだろうか。次々と新製品が出現する中で、生産の都合でしか消費者は存在していない。モノが溢れているように見えて、実はモノがないのではないか。モノだけではない。「政治」も「教育」も「情報」も、ボードリヤールが言うように「余暇」でさえも、ただ忙しいように見えて時間を(時間までもだ!)「消費」しているだけではないか。本当にCONSUMATION(焼き尽くすこと、燃え尽きること、激しい昂揚)する環境がますます減っているように思える。すべてが記号化する中で、われわれの<生>はますます貧しくなっているように感じるのだ。
「消費社会論」とは、このような「消費」が社会のあらゆる分野に浸透しつつある中で、それを批判的に克服する理論であって欲しいと思う。
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